ルカによる福音書7:36-50
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 (ルカ7:47)
キリストは、借金を帳消しにしてもらった二人の人のたとえ(41-42節)を娼婦とファリサイ派の人に当てはめて、ファリサイ派のシモンの高慢な心を鋭く指摘なさいました。すなわち、ファリサイ派のシモンはキリストを自分の家に招きましたが、その接待の仕方は格別に心のこもったものではありませんでした。彼はキリストに足を洗う水を出さず、接吻をせず、頭にオリーブ油の香油を塗りませんでした。もし、シモンの接待がキリストを自分の家に迎える感謝で満たされていたならば、もう少し違った仕方であったのではないでしょうか。たとえば、足を洗う水くらいは出したのではないでしょうか。ところが、招かれざる客としてキリストの足元にひれ伏した娼婦の方は、涙でキリストの足を濡らし、髪の毛で拭い、足に接吻を繰り返し、足に良い香りのする香油を塗りました。二人の差は歴然としているため、どちらが多くキリストを愛しているかは明らかであります。娼婦の方の方がファリサイ派のシモンよりもはるかに多く、熱心に、深く、真実に、キリストのことを愛していたのであります。そして、その理由は、この娼婦が深く自分の罪を悲しんでおり、自分の罪を赦してくださる方としてキリストをはっきりと認識していたのに比べ、ファリサイ派のシモンは自分が正しい人間だと思い込んでいたために、自分の罪を悲しむことを知らず、キリストがどのようなお方であるかということも認識できていなかったからであります。
したがって、キリストは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)と結論をなさいました。これはとても大切な御言葉であります。なぜ大切かと申しますと、「キリストへの愛は、キリストに赦されたことの証明である」という真理を言い表しているからであります。キリストへの愛が、キリストに赦されることの原因ではないのです。キリストが罪人を赦して愛してくださることが、キリストを愛するよりも先に来るのです。 (7月24日の説教より)