わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。 (二コリント8:20-21)
コリント教会の中にはパウロに対して根強い疑いをもつ信徒たちがいました。この手紙の12章14節から18節を読むと、コリント教会の信徒たちの執拗な疑念に苦しむパウロの姿が浮き彫りにされています。パウロは「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです」(14節)と言い、自分が信徒たちからの謝礼を求めているのではないことを率直に述べています。また、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」(15節)と言って、信徒たちのために自分の財産や心や体を喜んで使う覚悟であることを述べています。ところが、そのようにしても、自分は信徒たちから愛されないという悲しい現実があることを告白しています。「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか」(15節)と嘆いています。そして、「わたしが負担をかけなかったと
しても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています」(16節)と、あたかも詐欺師であるかのように疑われていることを嘆いています。おそらくパウロがテトスを第一回目に派遣して、エルサレム教会の貧しい信徒たちのための献金を始めさせたときに、コリント教会の信徒たちの中に、「パウロは謝礼を要らないと言いながら、ほかの教会のためにと言って献金を集めて自分のものにしようとしている。私たちからだまし取ろうとしているのだ」と言う信徒たちがいたということでしょう。「テトスにそちらに行くように願い」というのは、テトスの第一回目の派遣のことなのでしょう。
こうして、過去にパウロに向けられた疑いがあったことを考えますと、このたび、パウロが三度目にテトスをコリント教会に派遣するにあたり、マケドニア州の教会の二人の信徒を同伴させるのは、コリント教会の献金はパウロにもたらされるのではなく、エルサレムの教会にもたらされるということを確実に保証するためであったことがわかります。パウロの代理人であるテトスだけですと、再びそのような疑いが生じるおそれがあるので、マケドニア州の教会の二人の信徒を同伴させることにしたのです。それが「人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」ということです。 (3月27日の説教より)