コリントの信徒への手紙二8:7-9

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

                  (二コリント8:9)

「主は豊かであった」とは、キリストがこの世にお生まれになる前に、天の父なる神様のところで安らかに生きていらっしゃったことを指しています。「あなたがたのために貧しくなられた」とは、キリストがコリント教会の信徒たちの救いのために、この世にお生まれになり十字架について死んでくださったことを指しています。そして、「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになる」とは、キリストが十字架について死んでくださったことによって、コリント教会の信徒たちが罪赦され、義とされ、神の子とされることを指しています。

この手紙の5章21節でパウロは次のように記しています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」本日の箇所の9節の「豊か」という言葉が意味していることは、5章21節では「罪と何のかかわりもない」に当たります。そして、「貧しくなられた」に相当するのが、5章21節の神が「罪となさいました」ということです。さらに、「あなたがたが豊かになる」が、5章21節では「神の義を得る」と表現されています。「神の義を得る」とは、神様によって義と認められ救われることです。つまり、キリストが十字架上で死んでくださったことによって、私たちのものであった罪がキリストのものとなり、キリストのものであった義が私たちのものになったという驚くべき交換が起こったということを、5章21節は教えているのです。そして、それと同じように、本日の箇所の9節では、キリストが十字架上で死んでくださったことによって、「あなたがたのものであった貧しさがキリストのものとなり、キリストのものであった豊かさがあなたがたのものになったのですよ!」とパウロはコリント教会の信徒たちに思い起こさせているのです。「キリストの十字架によって、貧しさと豊かさの交換という驚くべきことが起こったことを思い起こしてください」と訴えているのです。

(3月6日の説教より)