説教「悔い改めを迫るキリスト」 (ルカによる福音書13:1-9)
神への厳粛な恐れ
宗教改革者のカルヴァンは「悔い改め」を「われわれの生が真実に神に向き変わることであって、この向き変わりは神へのまじりけない、厳粛な恐れから生じるものである。これは、われわれの肉とわれわれの古き人に死ぬことと、御霊によって新しく生きることから成る」(渡辺信夫訳)と定義しました。この悔い改めの定義を考える上で、本日の箇所の6-9節の「実のならないいちじくの木」のたとえが、たいへん助けになります。このたとえの中では、悔い改めない人が実をつけないいちじくの木にたとえられています。そして、神様はいちじくの木が植えられているぶどう園の主人にたとえられています。ぶどう園にいちじくの木を植えるのはおかしいではないかと思われるかもしれませんが、聖書の時代、ぶどう園にはぶどうだけでなくいろいろな種類の果物が植えられていたそうです。ですから、このぶどう園は果樹園のことと考えてよいでしょう。
ぶどう園の主人は実のならないいちじくの木のことで、園丁に対して次のように命じます。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」(7節)この言葉に表されている主人の性格を考えてみますと、三年間待ってきたというのですからかなり忍耐強い性格と言えるでしょう。しかし、「切り倒せ」と命じているところには厳しさを感じます。つまり、忍耐した結果これは見込みがないと見きわめて「切り倒せ」と命じているのです。興味深いのは、その後の「なぜ、土地をふさがせておくのか」という言葉です。原典ではこの箇所にはカタルゲオーというギリシア語が用いられており、この言葉は「無駄にする」とか「遊ばせておく」という意味です。ですから、その木が土地の養分を吸い上げながら何の実りもつけていない、というニュアンスを含んでいるのです。これに対して、園丁は木をすぐに切らないでくださいと主人に執り成しをします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(8-9節)この園丁の執り成しでは、二つの点が心に留まります。一つは、ただもう一年待ってくださいと言っているだけではなく、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」というように、いままで実のならなかったいちじくの木が実を結ぶように特別の努力をしますと述べている点です。もう一つは、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言って、この努力をしても実がならなければ主人の命令どおり切り倒すこと、つまり、これが最後のチャンスであることを認めている点であります。
この主人と園丁のやりとりから、第一に、実を結ばない木は切られるという厳粛な事実に気づかされます。カルヴァンは、「悔い改め」が神への厳粛な恐れから生じるということの解説として、次のように述べています。「神がいつの日にか、ことばと行いのいっさいに清算をつけるために、さばきの座にのぼりたもうとの思いが、深く心を占めるならば、この思いは、悲惨な罪人に休みを許さず、一瞬たりとも息づくことをさせず、さばきの日に安んじて立つための別個の生き方を瞑想するように絶えず刺激のであるする。」18世紀のアメリカの牧師・神学者であるジョナサン・エドワーズも、「怒れる神の御手の中にある罪人」という題の歴史的な説教において、神の審判への真剣な恐れをもつようにと人々に訴え、アメリカにおける信仰の大覚醒を促しました。神に対する厳粛な恐れはキリスト教信仰にとってなくてはならないものですが、今日では教会でもこれについて語るのを避ける風潮があるように思われます。この風潮は、現代の心理学とキリスト教を結合したような教えによるのかもしれません。すなわち、信仰的な生き方とは、自分と他者の両方の存在を認めること(アイ・アム・オーケー、ユー・アー・オーケー)であるとか、前向きな考え方をすること(ポジティブ・シンキング)であると簡単に言ってしまうために、信仰が厳粛な神への恐れを伴わない底の浅いものになりがちなのです。
たましいにおける変化
主人と園丁のやりとりから気づかされる第二のことは、実を結ぶことの大切さです。カルヴァンは「悔い改め」とは「単に外的な行いにおける変化でなく、たましいそのものにおける変化」であると解説しています。一般的に「悔い改め」と言いますと、悪事をしていた人がそれをやめて善い行いをするようになることだと考えます。もちろん、そのような理解もまったくの間違いではありませんが、外面の行いを変えるだけではキリスト教的な悔い改めとは言えません。キリスト教的な悔い改めは、内面の魂の変化が外面の行いの変化という実を結ぶところに特徴があります。そして、魂の変化は、私たちの魂の中で古い人が死に新しい人が生きることによって可能となります。まず、私たちは自分の本性がまったくの罪人であることを認め、自分を否定しなければなりません。私たちの本性は神の教えに反することを行うものであり、最後の審判において滅ぼされるべきものだからです。そして、私たちは聖霊によってキリストの新しい命(永遠の命)を受けて、再生させられねばなりません。こうして、キリストを信じることによって、私たちの内にはキリストの形すなわち神の形が再形成されていきます。しかも、これは一時的なことではなく生涯を通して進んでいく過程です。 悔い改めは、クリスチャンにとって全生涯をあげての修練であり戦いであります。すなわち、悔い改めとは一度や二度のことではなく、全生涯にわたって走り抜くマラソンのようなものであります。この点をよく理解しておきませんと、自分は一度悔い改めたから十分立派な人間になった、と思い上がったりします。また反対に、自分は悔い改めたつもりだったが何も変わらなかった、信仰者として失格なのだろう、と投げやりな気持ちになったりします。悔い改めとは、大悪党だけでなく、普通の人が毎日神の掟とキリストの十字架を思うことによって、自らの罪を深く自覚し、キリストの救いを信じてキリストに従う歩みを繰り返していくことなのです。
(2014年1月5日の説教より)