説教「低きを高めるキリスト」
ルカによる福音書14:7-14

 客として招かれた場合
 本日の聖書の箇所で、キリストは客として招かれることと客を招くことについての二つのたとえ話を語っておられます。まず、7-11節では、客として招かれた場合、自分で上席に座ってはならず、末席に座っておいて主人から勧められたならば上席に座りなさい、ということが教えられています。「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」(10節)聖書の時代にも会食に上席と末席があったというのは、興味深いことです。新約聖書の時代に客を招いて招待する場合、部屋の中央に四角いテーブルが置かれました。そして、テーブルの入り口に近い方の側には僕たちが給仕のために控えており、他の三方の側には幅の広い寝いすが置かれました。そして、この瞑いすに横たわって、左肘で体を支えながら右手で食事をするというのが一般的な作法であったそうです。上席はテーブルをはさんで入り口と反対側に設けられました。つまり、部屋の奥の方です。そこで、尊敬されている客は入り口と反対側の席に座らせられました。この教えは、直接には客として招かれた場合のエチケットを教えています。しかし、その意味は決して単なるエチケットに限定されるものではありません。自分から上座に座るなという程度のことであれば、私たち日本人にとっては常識のようなものですし、キリストと同じ時代のユダヤ人の文献にも同じようなことが教えられていました。
キリストがおっしゃろうとしたことの中心は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という11節の御言葉にあります。キリストは、食事の席のエチケットの問題を通して、人間の生きる姿勢全体について教えておられるのです。すなわち、人々の前で高ぶる者は神によって低められ、人々の前でへりくだる者は神によって高められる、ということであります。ルカによる福音書には、そのことの実例が豊富に記されています。たとえば、16章19節以下には、ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、ラザロというできものだらけの貧しい人が登場します。死んだ後、貧しい人の方は天国の宴会に招かれますが、金持ちの方は地獄で火に焼かれて苦しめられます。また、18章9節以下には、人々から尊敬されて高慢になっているファリサイ派の人と、人々から軽蔑されている徴税人の話が記されています。ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分を誇る祈りをしました。ところが、徴税人は胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とひたすらへりくだって祈りました。そして、神によって義とされたのは、ファリサイ派の人ではなく徴税人の方でありました。キリストはここでも「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と教えておられます。

 客を招く場合
 次に、12-14節では、キリストは人を招く場合の作法について教えておられます。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(12-13節)この部分も、実は前半と同じように単に客を招待する場合のマナーについて教えているのではなく、そのことを通して人が隣人と関わる場合の原則について教えておられるのです。その原則とは、自分にお返しをしてくれる人よりもお返しをしてくれそうもない人によくしてあげなさい、ということであります。これは、前半の話とは違って人間の一般常識に反するような教えです。一般常識では、人間の交わりはいわゆるギブ・アンド・テイクであって、招かれれば返礼としてこちらも招き、贈り物をもらえばこちらもお返しとして贈り物をするということでしょう。ところが、キリストの教えによれば、親しくもなければお返しをしてもらえそうもないような人を招いて、進んで交わりをしなさいというのであります。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は、いずれも隣人の助けを必要としている困窮した人の例であります。自分に何かお返しをしてくれそうな人を招くのではなく、助けを必要としている人を招くことは、神の目から見て正しいことだから、というのがその理由です。すなわち、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのです。キリスト教の教えによれば、この世の終わりには最後の審判があり、正しい人は復活して永遠の命の栄光を受けるとされています。キリストが「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と述べておられるのは、終わりの日に確実に報われるということであります。ですから、この後半のたとえ話でも、「神が報いをくださる」という点では、前半のたとえ話の「神が高めてくださる」という点と共通した考え方がなされていることがわかります。
 自己中心から神中心へ
 キリスト教の考え方は神中心の考え方であり、あくまでも神に信頼することを第一とします。この世の考え方は人間中心の考え方ですから、自分で自分を高い者であると主張したり、自分に見返りを与えてくれる人とだけつきあうというようなことがなされます。しかし、キリストはそれを神中心に改めるように求めておられるのであります。これを、キリスト用の教えで「自己否定」と言います。すなわち、自分の人生は神に献げられたものである(ローマ12:2)ということです。宗教改革者のカルヴァンは次のように教えています。「われわれはわれわれのものではない。したがって、われわれはできる限り、己れ自身と己れのものとを忘れなければならない。その逆に、われわれは神のものである。したがって、われわれはかれのために生き・かれのために死ぬべきである。われわれは神のものである。したがって、われわれのことごとくの行動は、神の知恵と意志とによって支配されねばならない。」(『キリスト教綱要』3篇7章1)
 このように考えてまいりますと、私たちの現実の生き様が、いかにこのキリスト教の教えから離れたものになっているかということに、改めて気づかされるのであります。私たちは自分を人よりも優れた者であるかのように考え、そのように見せようとしがちです。そして、人と交わるときにも自分に利益を与えてくれる人とだけ交わり、そうでない人とは交わろうとしないような傾向をもっています。神中心ではなく自己中心なのであります。そこで、自己中心から神中心の生活へと転換していくためには、ひたすらにキリストを信じ、キリストに従って行く以外には方法がありません。なぜなら、キリストこそ、自己中心の生き方しか知らない私たちに代わって神中心の生き方を成し遂げ、救いの道を開いてくださった方だからであります。
  (2014年2月9日の説教より)