ルカによる福音書6:17-26

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」

(ルカ6:22)

この「人の子」とはキリストのことでありますから、キリストのために迫害されるものは幸いであるということです。そして、23節では、迫害を受けても「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と教えられています。それは、「この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」とあるように、旧約聖書の時代から神様に従う人々、特に預言者と言われる人たちは迫害され続けてきたからであります。たとえば、預言者エリヤは、イスラエルの偶像礼拝の罪を告発したために、王妃イゼベルから命を狙われて自ら死を願うほどに苦しみました。預言者エレミヤは、ユダ王国の滅亡を預言したために、水溜めに投げ込まれて殺されそうになりました。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデの不道徳な結婚を批判したために投獄され、妻ヘロデヤの悪だくみによって首を切られ悲劇的な死を遂げました。これらの例を見ると、人々から迫害されることは、真の神の僕であることのしるしであると言えるでしょう。逆に人々からほめそやされることは、神様ではなくこの世の人々に気に入られようとしていることのしるしであると言えるでしょう。ですから、使徒言行録5章41節にありますように、初代教会の使徒たちは、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられ鞭で打たれたときも、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを」喜んだのでありました。

十字架の道を歩む人は幸いな人であります。なぜなら23節で記されておりましたように「天には大きな報いがある」からであります。宗教改革者のカルヴァンは、『キリスト教綱要』3篇第6章から第10章において、クリスチャンの人生のあり方について教えています。その第9章は「きたるべき生の瞑想について」という題で記されています。「きたるべき生」とは、天において、また終わりの日においてクリスチャンに与えられる命のことです。その中でカルヴァンは、クリスチャンの人生の目標とは「この世には、それ自体としては悲惨であるもののほか何もない、ということを悟りつつ、いよいよ快活に、またいよいよ備えを整えて、きたるべき永遠の生の瞑想に全生活を賭けてつとめるということ」であるとはっきり告げています。そして、この世の人生については、主が我々を配置したもうた「部署のようなもの」で、「我々は主によって呼び戻されるまでは、ここを守り抜かねばならない」(渡辺信夫訳、3篇9章4)と教えています。ですから、この世における自分の満足を追求する生き方は、クリスチャンの生き方とは正反対の生き方であるということがわかります。(8月8日の説教より)