しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
(一コリント15:16)
この主というのは、主イエス・キリストのことです。そして、「主の方に向き直れば」というのは、回心してイエス・キリストを信じればということです。つまり、ユダヤ教の教師であったパウロが回心してイエス・キリストを信じたように、モーセの律法だけを信じていた人々が、モーセの律法の目指すものを実現したイエス・キリストの方に向き直ってイエス・キリストを信じれば、ということです。次の17節前半の「ここでいう主とは、“霊”のことです」というのを文字どおりに取ると、「ここでいう主とは、聖霊のことです」という意味のように聞こえます。しかし、そうではありません。「ここでいう主は霊的な方です」という意味です。それは、17節後半の「主の霊のおられるところに自由があります」という言葉からわかります。「主の霊」というのですから、「主」は父なる神様か子なるイエス・キリストのことになります。そして、イスラエルの人々は父なる神様を信じていたにもかかわらず、心がかたくなにされたのですから、先ほどもお話ししましたように、この「主」は子なるイエス・キリストでなければなりません。ですから、ここでは「主の霊」とはキリストの霊のことです。そして、このキリストの霊が聖霊なのです。
それでは、なぜキリストの霊である聖霊のおられるところには自由があるのでしょうか?それは、エレミヤ書31章31-34節で預言されているように、キリストの福音を信じる人は、罪が赦され、神様の律法が聖霊の働きによって心の中に記されるからです。ここに、キリストの福音によって与えられた「新しい契約」が、モーセの律法によって与えられた「旧い契約」とは決定的に違う点があるのです。すなわち、キリストの福音を信じる人は自由な気持ちで神様の教えに従うように導かれていくということです。道徳的な戒めによって厳しく育てられた人は、心の中のある部分はまじめになりますが、心の中の別の部分はかたくなで自己中心的になります。ですから、物事を判断して行動するときに、普段は怒られないようにと考えて道徳的に行動しますが、怒られないとわかれば自分の勝手気ままに行動するのです。これは奴隷的な生き方であって、自由な生き方ではありません。ところが、聖霊の導きによって育てられた人は、神様の喜ばれることをしようという気持ちで心の中が統一されています。神様の言われたとおりにできなくても神様は赦してくださるのだから、毎日悔い改めて神様の喜ばれることをしていこうという気持ちで生活するのです。自由な気持ちで神様の教えに従って生きることができるのです。なぜなら、キリストの十字架と復活によって、神様は私たちに永遠の栄光を与えようとしておられることを知っているからです。 (4月18日の説教より)