コリントの信徒への手紙二1:19-22
神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
(二コリント1:22)
「証印を押す」と翻訳されているスフラギゾーというギリシア語は、ギリシア語の辞典によれば、持ち主の所有であることを示す証印を押すことを意味しています。また、研究者によれば、中身を保証する証印という意味もあるそうです。すると、パウロやその同労者たちは、父なる神様によってこの人たちは神のものであることを示す証印を押されているということになります。また、まことのクリスチャンであるという証印を押されているということになります。
そして、神のものでありまことのクリスチャンであることの保証となるのが聖霊なのです。「保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」という“霊”が聖霊であることは言うまでもありません。「保証」と翻訳されているアラボーンというギリシア語は、「手付」という意味の言葉です。つまり、何か大きな買い物をするときには、いきなり代金の全額を支払うのではなく「手付金」を支払って契約をします。そして、問題なく商品や不動産の引き渡しが終わった時点で、残りの代金を支払います。聖霊が「手付」であるとは、いったいどういう意味でしょうか?それは、終わりの日に与えられる完全な救いの「手付」であるということです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の1章14節で「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」と記しています。「御国を受け継ぐ」ということが完全に実現するのはいつでしょうか?クリスチャンがこの地上の生涯を終えて、天国に召されるときでしょうか?確かに、地上の生涯を終えると、天の家に住まいを与えられます。しかし、それが救いの完成ではありません。クリスチャンの救いは、終わりの日にクリスチャンがキリストと同じような永遠の命の体を与えられて復活するときに完成します。ですから、聖霊が「手付」であるというのは、終わりの日に与えられる永遠の命の体という完全な救いの「手付」であるということです。
(10月11日の説教より)