ルカによる福音書 14:15-24
「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」 (ルカ14:24)
本日の聖書の箇所は、招かれていながらそれを断る客、町の広場や路地でたむろしている人々を連れてくるように命じる主人、しかも家がいっぱいになるまで寄る辺なき人々を招き続けるように命じる主人という三つの場面からなっております。そして、それぞれの場面の解釈については、研究者によって様々な見解の相違があります。しかし、最も穏健な解釈によりますならば、第一の場面で招待を断る客というのは、旧約聖書を通して古くから神の言葉を聞き続けていたにもかかわらずイエス・キリストを信じないで拒否したユダヤ人であり、第二の場面で招かれる人々とは、もともと神の教えを知らなかったにもかかわらず、イエス・キリストを信じた異邦人(すなわちユダヤ人以外の人々)であり、第三の場面で主人が寄る辺なき人々を招き続けるようにというのは、異邦人にキリストの福音を宣べ伝え続けるようにという神の命令である、ということになります。そのように解釈いたしますと、ユダヤ人がイエス・キリストを拒否して十字架につけ、その後もキリスト教に対する反対と迫害を繰り返し、他方、キリスト教はギリシア人やローマ人などの外国人に受け入れられていった、というキリスト教の初期の歴史と一致するのであります。そして、私たち日本人のクリスチャンも、本来は天国の宴会には招かれていなかった者でありますが、神の熱意によって天国に招かれる者となったということができるでしょう。
このたとえの私たちにとっての意味を考えるときに、天国の宴会に招かれた人が神の目から見るならば、どのような人であるかということを教えている点が大切であると思われます。すなわち、最終的に天国の宴会に招かれたのは、畑を買ったり、牛を買ったり、妻を迎えたりしていた、いわば充実した生活をしていた人々ではなく、町の広場や路地、通りや垣根のあたりで仕事もない惨めな暮らしをしていた人々でありました。もちろん、これはたとえでありますから、文字通りにではなく象徴的に理解されねばなりません。すなわち、神様は自分のみじめさや拠り所のなさを味わって生きている人々を、憐みと赦しをもって招いてくださるということです。(8月30日の説教より)