一コリント16:19-24
わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。 (一コリント16:24)
これは、他の手紙には見られない特別な挨拶の言葉です。理論的に考えれば、パウロは前の23節でキリストの恵みを願ったのですから、もう何も付け加える必要はないように思われます。しかし、パウロは「わたしの愛が」「あなたがた一同と共にあるように」と書かずにはおれなかったのでしょう。この手紙でパウロはさまざまな厳しい警告や勧告を書いてきました。そして、自筆で書いた手紙の結びでは、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(22節)というとりわけ厳しい言葉をあえて書いています。これらは、コリント教会の信徒たちに対する「わたしの愛」から書いているのです、と最後に言わずにはおれなかったのでしょう。ここには、わたしの厳しさは愛から出ていることを知ってほしい、というパウロの切実な願いが込められています。
そして、パウロはそのような切実な願いを書く場合にも、キリストを中心とすることを忘れません。「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」と言うのです。パウロは、愛と厳しさをもってコリント教会の信徒たちに向き合うときに、自分と信徒たちの間には、キリストがおられるということをいつも念頭に置いているのです。キリストが間にいてくださるからこそ、パウロの愛は独りよがりな押しつけの愛ではなく、パウロの厳しさは一方的に人を裁くような独善的な厳しさではないのです。それは厳しさを通してキリストを中心とした交わりを建て上げ、愛によってキリストを中心とした交わりを完成するような愛と厳しさなのであります。
私たちはこのコリントの信徒への手紙一を通して、多くのことを学ぶことができました。今その内容を一つひとつ全部挙げることはできません。あえてまとめるとすれば、二つにまとめることができるでしょう。一つは、地上の教会は多くの問題があるにもかかわらず、キリストによって建てられたものであり、そこに集められた者たちはキリストの恵みを受けることができるということです。そして、もう一つは、恵みを受けた者はそれに感謝して、キリストの御心に従って生きるように求められているということです。もし恵みに感謝せず、自分の好きなように生きるならば、神様の裁きを受けるでしょう。絶えず悔い改めて感謝の生活をしてまいりたいと思います。
(7月19日の説教より)