コリントの信徒への手紙一15:12-19(新約320頁)
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(一コリント15:19)
キリストを信じると言っても、永遠の命を信じずに、この世の生活での慰めを得ようとしているだけなら、私たちクリスチャンは人々の中で最も惨めな者になる、ということです。細かなことですが、この箇所は、「この世の生活だけでキリストに望みをかけているとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と翻訳することもできます。「だけ」という言葉を直接に「この世の生活」にかける翻訳の仕方です。最新の英語の聖書(ESV)は“in this life only”とそのような翻訳の仕方を採用しています。(If in Christ we have hope in this life only, we are of all people most to be pitied.)その方が、意味がよりはっきりするかもしれません。すなわち、永遠の命の恵みを信じないで、この世の生活だけでキリストから慰めを受けようとしているのであれば、これほど空しいことはない、私たちクリスチャンは人々の中で最も惨めな者になる、ということです。もし「この世の生活だけで」慰めを得ようとするのであれば、お金や地位や快楽のような現実的なさまざまな手段があるはずです。キリストを信じることは、「この世の生活だけで」慰めを得るにはふさわしくない手段です。なぜならキリストを信じることによって、クリスチャンはこの世の生活でさまざまな苦難を受けることになるからです。クリスチャンであることによって、迫害を受けたり、重荷を負ったり、他の人の悲しみを共にしたりして、苦しみを経験します。
キリストを信じることは、本来「この世の生活だけで」慰めを得るためのものではありません。キリストを信じることは、この世に生きているときも、この世の生活を終えて死んだ後であっても、変わることのない永遠の命という恵みを受けるためのものなのです。それを理解せずに、クリスチャンでありながら復活ということを信じないで、永遠の命という恵みを否定して、「この世の生活だけで」慰めを得ようとするのはなんと惨めで愚かなことだろう!とパウロは述べているのです。(4月26日の説教より)