しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(一コリント15:10)
フィリピの信徒への手紙の3章5節から11節において、パウロは、ユダヤ人のエリートとしての自分の人生を「塵あくた」とみなして、キリストを信じる「信仰に基づいて神から与えられる義」こそすばらしいと言います。そして、キリストを信じて生きる人生の最終目標は「死者の中からの復活」であると力を込めて主張しています。
パウロという人はキリストを信じることによって与えられる神の恵みに感動して、神の恵みに応えるために自分の生涯をキリストを宣べ伝えるために献げたということがわかります。ところが、本日の箇所の10節の後半を読みますと、さらに驚くべきことが記されています。10節の後半には「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」とあります。パウロはキリストを宣べ伝えるために他のだれよりも献身的に働きました。しかし、働いたのは「実はわたしではない」と言います。そして、働いたのは「わたしと共にある神の恵みなのです」と断言します。神の恵みが働いたとはどういうことでしょうか。それは、神が恵みによってキリストの霊である聖霊をパウロに与えて、パウロを働かせたということでしょう。働いたのは、パウロ自身というよりもパウロの中に与えられたキリストの霊であったのです。それは、パウロがガラテヤの信徒への手紙の2章20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と記していることからもわかります。ですから、パウロが言いたいことは、「キリストを宣べ伝えるために生涯を献げて働いたわたしを見よ」ということではありません。むしろ、「わたしをこのように働かせた神の恵みを見よ」ということです。すなわち、「わたしと共にあってキリストを証しさせた父・子・聖霊なる神の恵みを見よ」ということなのです。(4月19日の説教より)