そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。          (ルカ23:25)

ピラトは、政治的配慮から法を曲げてキリストを十字架につけて殺すことに同意しました。キリストが無罪であることを確信していたにもかかわらず、ユダヤ人の要求に従ったのでありました。すなわち、ピラトは、暴動と殺人のかどで投獄されていた男を釈放し、キリストをユダヤ人に引き渡して「好きなようにさせた」(25節)のでした。「好きなようにさせた」というのは意訳で、原典を直訳すれば「イエスを彼らの意志に引き渡した」となります。この表現は、第一には、キリストの処刑がユダヤ人の意志によってなされたことを表しており、第二には、ピラトはキリストが無罪であることを知りながらユダヤ人を止めなかったということを表しています。

このように、キリストはまったく無罪であられたのに有罪とされ、しかも十字架刑という極刑に処せられました。なぜ、無罪のキリストが有罪とされ、十字架で処刑されねばならなかったのでしょうか。その理由は、単にユダヤ人指導者のねたみとか、群衆の無分別とか、総督ピラトの無責任とか、そのような人間的な事情だけで説明しつくすことのできるものではありません。すなわち、無罪のキリストが罪人として処刑されるということが父なる神の御心であり、そのようなしかたで父なる神は人類の罪が償われるということをお求めになったということであります。すなわち、キリストは人類に代わって罪人として十字架上で死んでくださったのでありました。それは、単に人間の法廷のレベルのことではありませんでした。神の法廷すなわち最後の審判のときに私たちが受けねばならない神の呪いを、キリストは十字架上で私たちに代わって受けてくださったのでありました(ガラテヤ3:13参照)。

(3月1日の説教より)