「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 (ルカ13:5)
一般的に「悔い改め」と言いますと、悪事をしていた人がそれをやめて善い行いをするようになることだと考えます。もちろん、そのような理解もまったくの間違いではありませんが、外面の行いを変えるだけではキリスト教的な悔い改めとは言えません。キリスト教的な悔い改めは、内面の魂の変化が外面の行いの変化という実を結ぶところに特徴があります。そして、魂の変化は、私たちの魂の中で古い人が死に新しい人が生きることによって可能となります。まず、私たちは自分の本性がまったくの罪人であることを認め、自分を否定しなければなりません。私たちの本性は神の教えに反することを行うものであり、最後の審判において滅ぼされるべきものだからです。そして、私たちは聖霊によってキリストの新しい命(永遠の命)を受けて、再生させられねばなりません。こうして、キリストを信じることによって、私たちの内にはキリストの形すなわち神の形が形成されていきます。しかも、これは一時的なことではなく生涯を通して進んでいく過程です。
悔い改めは、クリスチャンにとって全生涯をあげての修練であり戦いであります(カルヴァン『キリスト教綱要』3篇3章9)。すなわち、悔い改めとは一度や二度のことではなく、全生涯にわたって走り抜くマラソンのようなものであります。この点をよく理解しておきませんと、自分は一度悔い改めたから十分立派な人間になった、と思い上がったりします。また反対に、自分は悔い改めたつもりだったが何も変わらなかった、信仰者として失格なのだろう、と投げやりな気持ちになったりします。悔い改めとは、大悪党だけでなく、普通の人が毎日神の掟とキリストの十字架を思うことによって、自らの罪を深く自覚し、キリストの救いを信じてキリストに従う歩みを繰り返していくことなのです。
(2月23日の説教より)