コリントの信徒への手紙一6:12-14

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない  (一コリント6:12)

12節には、「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉が二度記されています。また、これと同じような「すべてのことが許されている」という言葉が 同じ手紙の10章23節にも二度出てきます。このように繰り返し出てくるということから、この言葉はコリント教会における信仰のスローガンであったのだろうと推定されます。すなわち、コリント教会の信徒たちは「わたしには、すべてのことが許されている」という標語の下に信仰生活をしていたのでしょう。
確かに、キリストを信じて義とされた者は、もはや律法に奴隷のように服従する必要はなく、キリストに結ばれて自由に生きることが許されています。しかし、それはあくまでキリストに結ばれて自由に生きることであって、自分のやりたいように自由に生きるということではありません。ですから、「わたしには、すべてのことが許されている」というのは、クリスチャンの自由を大胆に言い表している面と同時に、クリスチャンの自由というものを誤解させる危険な面をも持っている言葉でした。
 そこで、パウロはこの言葉を引用しつつ、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と修正を加えています。「すべてのことが益になるわけではない」というのは、クリスチャンとしての信仰生活にとっては何をしても有益なのではないということでしょう。また、「わたしは何事にも支配されはしない」というのは、クリスチャンはやりたいことをやるという自分自身の欲望にも支配されないということでしょう。パウロは「わたしには、すべてのことが許されている」というコリント教会のスローガンが信徒たちの生活を誤った方向に導いており、クリスチャンでありながら娼婦のもとに通い続ける信徒たちの考え方にもこの標語が影響を与えているとうことを鋭く見抜いていたのであります。             (6月10日の説教より)