キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。 (一コリント4:15)
この箇所の後半の「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」という言葉は、「父親」という比喩が表している内容をよく物語っています。「もうけたのです」と訳されているゲンナオーという動詞は、人が父親となる場合に用いられる言葉です。この言葉は、母親になる場合にも用いられ、その場合は「産む」と訳すことができます。しかし、この場合は父親ですから、「産んだのです」ではおかしいので「もうけたのです」と訳されているのです。
パウロは「福音を通し」「キリスト・イエスにおいて」コリント教会の父親になりました。「福音を通し」というのは、福音を宣べ伝えることによってという意味でしょう(一コリント1:17、22-24参照)。パウロが十字架につけられたキリストを宣べ伝えたことによって、コリント在住のある人々が信仰の道に入り、救われて、永遠の命を受けました。そして、コリント教会の基礎が造られました。もちろん、それは神の力、キリストの力によるものです。パウロがキリストの福音を宣べ伝えることができたのも、またある人々がそれを聴いて信じることができたのも、キリストの霊が福音を語るパウロと、それを聴く人々に働いていたからに他ならないのです。キリストとの交わりや結びつきなしには、パウロの伝道もコリントの人々の入信もあり得なかったことでした。ですから、パウロはここで「キリスト・イエスにおいて」という意味の深い言葉を挿入しているのであります。
パウロがコリントでキリストの福音を説教したときに、キリストの霊の働きにより、信仰を与えられ永遠の命を受ける人々が生まれました。パウロの伝道によってコリント教会の基礎が据えられ、その後もパウロは継続してコリント教会の信徒たちの指導にあたりました。ですから、パウロはコリント教会の信徒たちにとって父親のような存在であり、コリント教会の信徒たちはパウロにとって子どものような存在なのです。 (2月11日の説教より)