侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。
(一コリント4:12-13)

パウロたちが人々から受けるのは「侮辱」「迫害」「ののしり」です。それに対してパウロたちが人々に返すのは「祝福」「忍耐」「優しい言葉」です。これは、単に意識してそのように努めていたということ以上のものでありましょう。パウロの内に宿っていた何かが、「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させたのでしょう。
コリントの信徒への第二の手紙4章7-11節で、パウロは苦難の中で与えられるキリストの命について次のように記しています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」このパウロの言葉によれば、キリストのために侮辱、迫害、ののしりを受け、死にさらされるのは、キリストの命がこの身に現れるためだというのです。キリストと結ばれた者はキリストの苦しみと死にあずかりますが、同時にキリストの復活と命にもあずかるのです。そして、そのキリストの命が「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させるのです。言い換えますと、パウロの内に生きて働いているキリストの霊が、パウロにそうさせるのです。
 これはキリストと共に生きている人が、誰しも経験することではないでしょうか。元の自分ならば「侮辱」に「侮辱」を、「迫害」に「迫害」を、「ののしり」に「ののしり」を返していたはずなのに、なぜかそうしなかった、という経験をなさったことがあるのではないでしょうか。人間の力ではなく、人間のうちに働く神の子キリストの霊の力が、「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させるのです。(2月4日の説教より)

<詳細版>
説教「侮辱に向き合う」
コリントの信徒への手紙一4:11-13

 献身に対する侮辱
 パウロは、第二回目の伝道旅行でマケドニア州からアカイア州に来て、コリントで伝道します。ユダヤ人クリスチャンのアキラとプリスキラの夫婦の家に住み込んで、テント造りの仕事をして生計を立てながらの伝道でありました。その後、マケドニア州のフィリピ教会からの献金が届き、パウロは伝道に専念します。パウロのコリント伝道の期間は1年半から2年くらいと推定され、洗礼を受けたのはクリスポとガイオとステファナの家の人たちでした。やがて、パウロがコリントを去ると、その後にエジプトのアレキサンドリア出身のアポロという伝道者が、アジア州のエフェソから遣わされて来ます。アポロの力強い伝道によってコリント教会は成長しますが、教会の中に「わたしはアポロにつく」という人々が出てきてパウロのことを低く評価するようになります。そして、パウロはかつて自分が福音を宣べ伝えたコリント教会の信徒たちから侮辱を受けるようになったのです。
 パウロはコリント教会から報酬を受けないで伝道をしたのですが、そのことが感謝されるどころか、報酬を受ける資格がない伝道者とみなされたようです。そして、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(二コリント10:10)とまで言われてしまいます。コリント教会の信徒たちは知恵や知識や聖霊の賜物に富んだ人々でした。そのため、プライドが高く自分を誇る傾向がありました。しかも、自分たちはすでにこの世を超越して、キリストと共に天の王座についているのだという誤った信仰の理解をしていたようです。パウロはキリストを信じない人々からはもちろん、キリストを信じる信徒たちからさえも侮辱を受けて大きな苦しみを味わいました。本日の箇所のすぐ前の10節には「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」と記されています。パウロは、キリストの十字架の苦しみにあずかって生きている自分たち伝道者と、そのことを忘れて高ぶって生きているコリント教会の信徒たちの姿を対照的に描くことによって、彼らに悔い改めを促しているのです。そして、本日の箇所では、キリストの十字架の苦しみにあずかる者の姿をさらに率直に表現しているのであります。
 侮辱に対する祝福
 11節から12節前半にかけては、次のように記されています。「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。」クリスチャンとなる前のパウロは、ファリサイ派の律法学者ガマリエルから聖書を学んだユダヤ教の教師でありました。ユダヤ人の社会では、律法の教師は研究、教育、聖書に基づいた裁判を職務としており、民衆から尊敬されている存在でした。しかし、キリスト教徒を迫害する律法の教師から、回心してキリスト教の伝道者になったパウロは、それまでとは180度異なる状況の中に置かれました。同胞のユダヤ人たちから尊敬ではなく迫害を受けるようになり、自分の手で生活のために必要なものを稼がねばならなくなったのです。「虐待され」と訳されているのは、コラフィゾーというギリシア語の動詞の受け身形ですが、この動詞は「こぶしで打つ」という意味です。パウロは実際に暴力を受けたこともあったでしょうし、ここではより広い意味で「乱暴に扱われた」ということを言っているのでしょう。社会的な地位を失ったパウロは、人々から粗末な者とされ乱暴な扱いを受けていたということです。
 その様子は12節から13節にかけて「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」と描かれています。パウロたちが人々から受けるのは「侮辱」「迫害」「ののしり」です。それに対してパウロたちが人々に返すのは「祝福」「忍耐」「優しい言葉」です。これは、単に意識してそのように努めていたということ以上のものでありましょう。パウロの内に宿っていた何かが、「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させたのでしょう。
 コリントの信徒への第二の手紙4章7-11節で、パウロは苦難の中で与えられるキリストの命について次のように記しています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」このパウロの言葉によれば、キリストのために侮辱、迫害、ののしりを受け、死にさらされるのは、キリストの命がこの身に現れるためだというのです。キリストと結ばれた者はキリストの苦しみと死にあずかりますが、同時にキリストの復活と命にもあずかるのです。そして、そのキリストの命が「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させるのです。言い換えますと、パウロの内に生きて働いているキリストの霊が、パウロにそうさせるのです。
 これはキリストと共に生きている人が、誰しも経験することではないでしょうか。元の自分ならば「侮辱」に「侮辱」を、「迫害」に「迫害」を、「ののしり」に「ののしり」を返していたはずなのに、なぜかそうしなかった、という経験をなさったことがあるのではないでしょうか。人間の力ではなく、人間のうちに働く神の子キリストの霊の力が、「侮辱」に「祝福」を、「迫害」に「忍耐」を、「ののしり」に「優しい言葉」を返させるのです。
            (2018年2月4日の説教より)