聖書のことば コリントの信徒への手紙一2:3-5
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
宗教改革者のカルヴァンは、パウロなどの使徒たちの働きについて、次のような興味深いことを記しています。「使徒たちは、神が霊的な恵みの解きあかしのために、自ら定めたもうた器として、用いたもう限りにおいて、御霊の力を説教において発揮するのである。しかし、この区別は、はっきりさせておかなければならない。すなわち、われわれは、人間が自らなし得ることと、神に固有なこととを、記憶にとどめなければならない。」(『キリスト教綱要』4篇14章11)これはどういうことかと申しますと、使徒たちが聖霊の力をもってキリストの福音を説教したときに、それを聞いた人々が信じるのは「神に固有なこと」すなわち神様だけがなし得る業だということです。キリストの福音を信じるということは、神の聖霊の働きによらなければ起こりえないことだからです。
このことから、私たちの伝道のあり方も定まってくると思います。私たちは日頃から周囲の人々にキリストの福音をできるだけ多くの機会を捉えて証しします。そして、キリストの福音が公に説教される主の日の礼拝に、できるだけ多くの人々を招くのです。しかも、一回だけでなく続けてキリストの福音を聞くことができるようにと招き続けるのです。しかし、キリストの福音がその人の魂に根ざすかどうかは、全く神の力にゆだねるのです。無理に信じさせようとしたり、無理に洗礼を受けさせようとしてはなりません。信じることも、洗礼を受けることも、神様の働きによる以外にないからです。神様の働きによってキリストの福音を受け入れない人を、人間的な知恵によってクリスチャンにする必要はありませんし、それをするべきでもありません。大切なのは、聖霊の力によってキリストの福音が正しく語られ、正しく聞かれ、信徒一人一人が聖霊に導かれてキリストの福音を証しする生活をすることです。そして、私たちはキリストの福音を聞いた人々が信じることができるように熱心に祈るものでありたいと思います。(9月24日の説教より)