説教「十字架の言葉」
コリントの信徒への手紙一1:18-19

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。」

 滅んでいく者と救われる者
 本日の聖書の箇所で、パウロは、十字架の言葉こそ私たちに神の力を与えるものだということを教えています。すなわち、18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と記されています。パウロによれば、キリストの十字架を告げる言葉の前では、人類が大きく二つのグループに分けられるというのです。一つのグループは「滅んでいく者」です。このグループに属する人々にとっては十字架を告げる言葉は「愚かなもの」であります。もう一つのグループは「救われる者」です。このグループに属する人々にとっては十字架を告げる言葉は「神の力」であります。
 この箇所を読むときに、「滅んでいく者」と「救われる者」という対比は、たいへん大胆なものに聞こえます。あまりに大胆なので、クリスチャンでない人々には不愉快に聞こえるかもしれません。また、クリスチャンであっても、パウロはもう少し配慮して書いた方がよかったのではないかと思うかもしれません。たとえば、「十字架の言葉は、信じない者にとっては愚かなものですが、わたしたち信じる者には神の力です」と書かれていたとすれば、キリストの十字架というのは信じない人にとっては無意味なものだけれど、信じる人にとっては大切なものなのだという意味になります。そうすると、これはごく常識的なことです。すなわち、信仰というのは、個人的なもので、何を信じるかは個人の自由、つまりどんなつまらないものでも信じればその人にとって大切なものになり、どんな立派なものでも信じない人にとっては無意味なものだ、ということです。これは誰にでも受け入れやすい内容です。しかし、パウロがここで記しているのは、そのような常識的な内容ではありません。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」というのです。キリストの十字架にどのように向き合うかによって、人間は「滅んでいく者」と「救われる者」に分かれるのだ、というきわめて大胆なことが言われているのです。

 罪の赦しと永遠の命
 先週の説教で、キリストの十字架を告げる福音の説教は、ちょうど遺言書のような性質を持っているということをお話しいたしました。遺言書はその人が死んだ後、誰に何を相続させるかということを記す文書です。ですから、読む人にとっては、内容が面白いかどうかではなく、自分が何を相続できるかということが重要なのです。キリストの十字架を告げる福音の説教もそれと似ています。つまり、福音の説教においては、キリストが私たちのために十字架上で死んで復活したということを信じるならば、一体何を受け取ることができるか、ということが重要なのです。聖書によれば、それは罪の赦しと永遠の命です。
 キリストの十字架を信じて罪の赦しと永遠の命を受けるということを聞くと、多くの人々は何と愚かなことを言っているのか、と思うでしょう。キリストの十字架が私に何の関係があるか、罪の赦しや永遠の命が私に何の意味があるか、と思うことでしょう。しかし、パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」と記すように、キリストの十字架は自分に何の関係も意味もない愚かなことだと考えること自体が、滅びなのです。なぜなら、キリストの十字架を否定することは神との和解を否定することであり、来るべき終わりの日の裁きにおいて神の怒りを受けることであるからです。ところが、反対にキリストの十字架を受け入れるならば、神と和解することができます。そして、来るべき終わりの日の裁きにおいては神の怒りを免れることができます。キリストの十字架を受け入れることによって、十字架の贖罪の効力が信じる者の身に及び、罪赦されて救われるからです。そして、永遠の滅びではなく永遠の命を受けることができるからです。福音の説教はこの救いを提示します。キリストの十字架による罪の赦しと永遠の命を差し出します。そして、「わたしたち救われる者には神の力です」とあるように、これを実際に受けて救われる人にとっては、十字架の言葉はまさしく救いをもたらす「神の力」そのものなのです。

 人間の知恵による救いの空しさ
 人は困難な状況に置かれたときに、自分の知恵で救いの道を見出そうとしがちです。そして、神様が無償で差し出してくださっている十字架の言葉による救いをなかなか素直に受け入れようとしません。このように、人間が神様の言葉を聞かないで自分の知恵で救いの道を見出そうとするのは、人間の傲慢であると言ってもよいでしょう。そのような人間の傲慢を神様が裁かれることを、パウロは旧約の預言者イザヤの言葉を引用して示しています。すなわち、19節には「それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」とあります。これは旧約聖書のイザヤ書29章14節からの引用です。預言者イザヤが活動した紀元前8世紀、ユダ王国は北の大国アッシリアの脅威にさらされていました。ユダ王国の王や高官たちは、人間的な知恵でアッシリアからの救いを求めました。最もわかりやすい企ては、南の大国エジプトと同盟を結んでアッシリアに対抗することでした。しかし、そのような人間的な知恵でエジプトに頼ることの空しさをイザヤは警告しました(イザヤ31:1-3参照)。つまり、人間的な知恵でエジプトに頼っても、エジプトは神様ではないのだから決して頼りにはなりません、神様の裁きによって共倒れになりますよ、とイザヤは警告しているのです。ユダ王国の王や高官たちは、国を守るためにそれ以外にもさまざまな人間的な知恵を用いようとしたことでしょう。しかし、パウロが引用するように、神様は預言者を通してこう言われたのでした。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」これは、王や高官たちが神様に信頼することをしないで人間的な知恵によって国を守ろうとする企てを、神様が失敗させるということです。そして、このことは、十字架の言葉を信じないで人間的な知恵に頼って救いの道を知ろうとする人々が、結局は失敗するということと、深いところで共通しています。そこで、パウロは、人間的な知恵に頼る傲慢な人々が失敗することは旧約の預言者イザヤによってすでに預言されていた、と言っているのです。
 私たちは一人一人、自分なりの人生観というものを持っています。何も持っていないようでも、毎日生きて物事を判断していく上で何らかの考え方が必要ですから、何らかの原則のようなものを持って生きています。たとえば、「長いものには巻かれよ」などというのは、最もわかりやすい原則の一つです。強い者、力のある者には逆らわないで従って生きていけば得だという考え方です。しかし、その「長いもの」もまた、さらに上におられる神様に裁かれるのです。ですから、「長いものには巻かれよ」というのでは失敗してしまうでしょう。それではどうすればよいのでしょうか。こういう場合はこうする、ああいう場合はああするというように、人間の知恵によってさまざまな場合を想定して、それぞれの場合に得をする生き方をあらかじめ考えて生きていれば、間違いのない生き方ができるのでしょうか。そうではありません。人間の正しい生き方とは神様の意思に従う生き方です。そして、神様の意思はキリストの十字架と復活に表されているのです。十字架の言葉に示されているのです。ですから、人間的な知恵を捨てて、十字架の言葉を受け入れるときに、まことの救いの道を歩むことができるのです。(2017年8月6日の説教より)