説教「成長を感謝する」
テサロニケの信徒への手紙二1:3-4
信仰の成長
パウロは本日の箇所の3節で「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」と記しています。テサロニケ教会の信徒たちは、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範」(一テサロニケ1:7)とまで言われる立派なクリスチャンでした。しかし、だからといって完全であったということではありませんでした。パウロはテサロニケの信徒への手紙一3章10節で「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と記しています。「必要なもの」と訳されているヒュステレーマというギリシア語は、「不足」「欠乏」「欠点」という意味もあります。多くの英語訳の聖書では、この語は“what is lacking”すなわち「欠けているもの」と訳されており、日本語訳の聖書でも「足りないところ」(口語訳)「不足」(新改訳)などと訳されています。ですから、この箇所においてパウロは、テサロニケの信徒たちの信仰においてなおも「欠けているもの」「足りないところ」があるということを率直に指摘していたのでした。その「欠けているもの」「足りないところ」が具体的にいかなる点であったのか、ということは私たちにはわかりません。しかし、パウロがその「欠けているもの」「足りないところ」をいつも心にかけて祈りのうちに覚えていたのは確かです。そして、その後テサロニケ教会の状態を聞くと、そのような欠けが次第に補われ満たされてきたということがわかったのでしょう。そこで、パウロは「あなたがたの信仰が大いに成長し」と記して、テサロニケの信徒たちの信仰が大いに成長したことを神に感謝せずにはおれない気持ちになったのです。
愛の成長
パウロは3節において「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」とも記しています。これも、感謝の理由を表しています。テサロニケの信徒への手紙一の3章12節には、「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」という祈りの言葉が記されていました。パウロはこの祈りによって、信徒一人一人がキリストによって差し出された神の愛を受け入れ、それによって養われ成長させられていくように、そして、信徒一人一人が愛に満ち溢れた人となっていくようにと祈っていました。その愛とは、第一に「お互いの愛」すなわち信徒相互の愛であり、第二に「すべての人への愛」すなわち迫害する人をも含めたすべての隣人に対する愛であります。クリスチャンが聖化され成長していくことは、キリストに似た者へと変えられていくことであります。キリストに似た者へと変えられていくとは、この世においては神と隣人のために十字架を負って歩むということであります。さらに言い換えますならば、お互いのために、またすべての人のために、自分の十字架を負って歩むということであります。パウロはテサロニケの信徒たちがそのようなクリスチャンとなることを祈っていましたが、「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」ということを誰かを通して聞きました。テサロニケの信徒たちの愛が豊かにされたのは、神がパウロの祈りを聞いてくださり、神がテサロニケの信徒たちのクリスチャンとしての愛を成長させてくださったからだとパウロは認識し、神に感謝せずにはおれなかったのです。
希望の成長
このような感謝すべきテサロニケの信徒たちの成長は、彼らを取り巻く状況が、苦しい状況から苦しくない状況へと変化したから与えられたものだったのでしょうか。つまり、テサロニケの信徒たちがユダヤ人や市の当局者から受けていた迫害が少し緩やかになったので、気持ちの上でゆとりが出てきて、信仰も愛も豊かになってきたということなのでしょうか。そうではありませんでした。現実はむしろその反対でした。テサロニケの信徒たちが直面していた迫害は、和らぐどころかむしろ厳しくなっていたと推察されるのです。それは、4節の「それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています」という言葉からわかります。使徒言行録17章によれば、伝道の最初のときですら迫害は厳しいものでした。すなわち、ユダヤ人たちがならず者をやとって暴動を起こし信徒の家を襲わせ、また皇帝に対する反逆の罪でクリスチャンを告発し、そのためクリスチャンは市の当局者に監視される状態になっていたのでありました。そして、この手紙においては「ありとあらゆる迫害と苦難」という表現が使われていますので、迫害は考えられる「ありとあらゆる」仕方にまで及んでいたのではないかと推察されるのです。おそらく、この世の命にかかわるような苦難を受けていたのではないでしょうか。
ところが、「ありとあらゆる迫害と苦難」の中で、テサロニケの信徒たちはそれに屈するどころか「忍耐と信仰」を示していました。これは、3節にもありましたように、神がテサロニケの信徒たちの信仰を成長させてくださったので、さらなる迫害の中でもさらなる忍耐を示すことができたということでありましょう。また、さらなる忍耐を示すことができたのは、彼らの救いの希望もさらに強められ成長させられていたからでありましょう。事実、パウロは続く箇所で強い救いの希望をテサロニケの信徒たちと共有しています。たとえば、6-7節には「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです」とあります。テサロニケの信徒たちの忍耐は、単なるやせがまんやあきらめからくるものではありませんでした。そうではなく、「神は正しいことを行われます」という確信に基づいた忍耐であったのです。キリストが終わりの日に正しい裁きをしてくださるという希望と確信に基づいた忍耐でした。
永遠の命の成長を感謝する
パウロはテサロニケの信徒たちの中で信仰と愛と希望が成長していることを知って、深く神に感謝しました。すなわち、永遠の命が成長していることを畏れをもって感謝したのです。信仰や愛や希望は、それ自体は肉眼の目に見えません。もちろん、永遠の命も肉眼の目に見えません。肉眼の目に見えないものの成長をパウロは見て感謝しました。これはパウロの生き方の姿勢そのものからきています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4:18)見えないものの成長をお互いにしっかりと見守り、その成長のためにお互いに励まし合う一人一人でありたいと願います。そして、お互いの成長を神に感謝する一人一人でありたいと願います。 (2017年1月29日の説教より)