イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。 (マルコ1:16-18)

 イエス様との出会い、それはこちらから探し出して、選び取ってということではありません。むしろイエス様がその眼差しを向けられ、イエス様から声を掛けられての出会いです。これがイエス様の弟子の召命です。それは、二千年たった今でも、起きていることです。イエス様に従っていったら、どんな良いことがあるのか、どんなメリットがあるのか。そのような損得勘定でついて行く道ではありません。現に、最初の弟子で4人の漁師たちは、即座に応答し、すべてを捨てて、イエス様の後に従いました。
 わたしたちは、しばしば自分にとって好条件、安定した生活、確かな将来への見通しなどが保証されるのを見てから、あるいはそれらと引き替えのようにして、「それなら進む」、「それなら止める」という自分にとって確かな、間違えのない人生の選択をするものです。
 もちろん、それらすべてが否定されるべきではないでしょう。時には慎重に、冷静に、客観的にあらゆる側面から事柄を想定した上で得た結論に基づいて、行動するということもあるでしょう。
 しかし、今日ここで私たちがまず、心に留めておきたいことは、イエス様と出会い、イエス様に声を掛けられ、イエス様に「わたしについて来なさい。」と言われたならば、わたしたちはその道を進むほかないという単純極まりないたった一つの事実です。ガリラヤで4人の漁師を弟子にしたように、イエス様は、今もいつもその眼差しを私たちに向けて「ご覧」になっておられます。私たちはその一つの事実を拠り所としてただひたすら従っていくのです。それがイエス様に呼び出され、召し出された者の歩み、それが献身の歩みです。(10月22日の鈴木美津子神学生の説教より)