ルカによる福音書16:1-9
「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」(ルカ16:8)
「抜け目のないやり方」というのは、意味をわかりやすくした翻訳です。ここに書かれているホティ・フロニモース・エポイエーセンというギリシア語は、文字どおりには「賢くふるまったゆえに」という意味です。それでは、いったいこの管理人のどこにほめてもらえるような賢さがあるのでしょうか?これは多くの聖書の研究者を悩ませてきた問題です。この問題についての伝統的な考え方は、管理人が自分の将来を見通して、辞めさせられた後に受け入れてもらえる場所をつくったといういわば「先見の明」を主人がほめたのだという解釈です。
そして、この解釈の根拠になっているのは、「賢くふるまったゆえに」の「賢く」という意味のフロニモースというギリシア語が、「賢い」という形容詞の形で、終わりの日の最後の審判に備えて生きる人が賢い人であるというキリストの教えにおいて用いられているからです。たとえば、マタイによる福音書7章24節から27節にある「岩の上に家を建て人の話では、次のように述べられています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
やがて来る最後の審判に備えて、キリストの教えを実行して生きている人は「岩の上に自分の家を建てた賢い人」に似ていると言われています。「賢い」と翻訳されているのは、「賢く」の形容詞の形であるフロニモスというギリシア語です。洪水の襲ってきたときに岩の上に建てられた家は倒れないように、最後の審判が来たときに、キリストの教えを実行して生きている人は安全だということです。それとは対照的に、キリストの教えを聞くだけで実行しない人は「砂の上に家を建てた愚かな人」似ていると言われています。すなわち、砂の上に建てられた家が洪水のときに倒れてしまうように、キリストの教えを聞くだけで実行しない人は最後の審判に耐えられないということです。この岩の上に家を建てた人のたとえによりますと、「賢い」とは終わりの日の最後の審判にあらかじめ備えをする「賢さ」のことです。そして、それと同じように、本日の聖書の箇所の主人がほめた不正な管理人の「賢さ」とは、自分が仕事を失う日に備える「賢さ」であると解釈することができます。ちなみに、2節の「会計の報告を出しなさい」という主人の命令は、人が終わりの日にこの世の人生で何をしてきたかを問われる最後の審判を指していると言うことができるでしょう。(8月2日の説教より)