ルカによる福音書15:25-36

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」    (ルカ15:31-32)

兄は、自分がいかに真面目な善い息子であるか、それに比べて弟はいかに不真面目な悪い息子であるか、そして弟を優遇して自分には冷たい父親が、いかに不公平であるかということを主張して、父親をやりこめたつもりになっていました。ところが、それに対する父親の答えは、彼がまったく予想していない驚くべきものでありました。
兄にとって意外であった第一の点は、父親から「私のものは全部お前のものだ」と言われたことでありました。確かに、12節にありますように、父親は兄と弟の両方に相続分を分けてやったのですから、父親のもとに残っている農場や牧場はすべて兄のものでありました。ですから、兄が友達と宴会をしたいので子山羊を一匹くださいと言えば、父は兄の自由にさせたことでしょう。つまり、この兄の大きな間違いは、父親の寛大な気持ちを理解しておらず、自分が受けることのできる恵みに気づいていなかったということなのです。さらに、その奥にあるものを考えてみますと、この兄は、父親と共に生活し、そこでの安定した生活という恵みを受けながら、そのことを喜んで受け止めてはいなかったということが浮かび上がってきます。彼の心の中心にあったのは、29節の言葉に表されていますように、「何年もお父さんに仕えている」自分であり、「言いつけに背いたことは一度もない」自分でありました。 そのような自分のしたこと、つまり、自分の功績や業績を中心に考えるような精神構造では、ほかの人の気持ちを理解することはできません。共に生活をしながら、この兄は、父親が自分を愛してくれており、自分が望むならば子山羊どころか子牛でも食べさせてもらえるということがわかっていなかったのでありました。
兄にとって意外であった第二の点は、父親から「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」ときっぱり言い渡されたことでありました。兄の頭の中では、この議論はどう考えても、自分が正しいという結論になっていました。ところが、それはこの兄の考えの中心が、自分の功績、つまり「自分はこれだけのことをしてきた」ということになっていたからです。もしこの兄が考えの中心を父親の愛という点に置き換えるならば、放蕩息子が帰ってきたことを「祝宴を開いて楽しみ喜ぶ」方が「当たり前」という結論になることでしょう。その理由は、32節前半の「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」という父親の言葉によく表されています。つまり、父親の愛を中心に置いて考えますならば、たとえ財産を使い果たした放蕩息子であっても、愛する息子なのですから、それが帰ってきたことを喜ぶのが当たり前という結論になるのであります。   (7月26日の説教より)