ルカによる福音書17:5-10

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」              (ルカ17:6)

ある特定のことについて疑うことなく純粋に信じる信仰があるならば、不可能が可能になるというのが、この6節の意味です。そして、ある特定のこととは何であるかということを聖書全体から考えますと、「キリストが私たちを罪と死から救うために、十字架について死んで復活してくださった」ということです。言い換えますと、イエス・キリストを信じるならば罪を赦され永遠の命を受けることができるという信仰があるならば、途方もなく深い私の罪が赦されて、死んで滅ぶべき私が永遠の命を受けるという、不可能を可能にする出来事が現実に起こるということです。これが「からし種一粒ほどの信仰」によってまず信じるべきことです。これをさらに簡単に申しますならば、「イエス・キリストを信じるならば、救われる」という信仰です。もちろん、これは本日の聖書の箇所に直接に書かれていることではありません。しかし、聖書全体から「からし種一粒ほどの信仰」によって信じるべきことは何かを考えますと、キリストの十字架と復活ということにたどり着くのです。

そして、キリストの十字架と復活を信じることこそ、確信をもって生きることの基礎になります。私たちが毎日の生活の中で語る一つ一つの言葉や、実際に行う一つ一つの行いに確信をもつためには、その一つ一つの言葉や行いが確かな基礎と目標をもっていることが必要です。皆様は、何に信頼して何のために生きておられるでしょうか?ただなんとなく生きているとか、仕方なく生きているということでは、確信をもって生きることができません。ですから、人はそれぞれ自分なりに頼りにするものや目指すものをもとうとします。しかし、頼りになると思っていたものが実は頼りにならなかったり、目指していた目標が実は空しいものであったりすることも経験します。たとえば、信頼していた親しい人に裏切られたり、自信をもって行っていた事業に失敗したりします。あるいは、外見は幸福そうでも実は空しい毎日を生きていたりします。ところが、キリストの十字架のゆえに、私は罪を赦されるのだということは、決して揺るがない人生の基礎になります。また、キリストの復活のゆえに、私は永遠の命をいただくことができるのだということは、確実な人生の目標になります。なぜなら、キリストの十字架と復活は、人類の救いのために世界の歴史の中で起こった揺るがない確実な出来事だからです。

(9月13日の説教より)