ルカによる福音書16:19-31

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。        (ルカ16:22-23)

 

本日の聖書の話を読むときに、ある人々は、なんと荒唐無稽なおとぎ話のようなことが書いてあるのかと思うかもしれません。とりわけ、人間はこの地上の命のある間に楽しく生きればそれでよいのだ、と思い込んでいる人々にとっては、本日の聖書の箇所は受け入れがたい教えかもしれません。しかし、わたくしは本日の聖書の箇所がとても重要な点を教えていると考えています。その重要な点とはなにかと申しますと、第一に、人間の魂は肉体が死んだ後も存在し続けて、ある魂は天国に召され別の魂は地獄に落とされるということです。そして第二に、天国に召される者と地獄に落とされる者を分ける基準は、何に頼り何に従って生きたかということです。お金に頼り自分の欲望に従って生きた金持ちは地獄に落とされました。しかし、神様にしか頼るところのなかった貧しいラザロは天国に迎えられました。さらに第三に、人間の魂は本当に自己中心的ですから、このたとえ話のように天国か地獄かというはっきりした形で自分の生き方を問われることも必要だということです。考えてみましょう。私たちの歩みは天国に向かっているでしょうか?地獄に向かっているでしょうか?

アブラハムは、29節のところで「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言っています。これは、私たちクリスチャンにとっては、旧約聖書のモーセと預言者によって証しされているイエス・キリストを信じて、イエス・キリストに従いなさいということです。イエス・キリストを信じてイエス・キリストに従うことこそ、天国への道なのです。イエス・キリストは、私たちの罪を償うために十字架で死んでくださった方です。ですから、キリストを信じる人には罪の赦しがあります。そして、キリストに従う人は、周りの人々と共に生きるために自分のできることをして、自分の十字架を背負って生きる人です。それは、本日の聖書の話に当てはめて言えば、門前に横たわっているラザロに何らかの仕方で手を差し伸べて共に生きようとすることです。これは容易なことではないかもしれません。しかし、私たちの生活のために与えられている富やお金は、自分のためだけではなく貧しい人々や苦しむ人々と分かち合うためにも与えられているのだ、ということを忘れないようにして生活してまいりましょう。

(8月30日の説教より)