一コリント15:50-53

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 (一コリント15:53)

パウロはコリントの信徒への手紙二の5章1節から4節では、地上の体を「幕屋」すなわちテントにたとえ、永遠の命の体を「建物」すなわち堅固な住まいにたとえて次のように記しています。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」
地上の体は、私たちの魂にとって仮住まいをするための「幕屋」のようなものです。しかし、終わりの日に与えられる永遠の命の体は、私たちの魂にとって「天にある永遠の住みか」です。私たちは、地上の体をもって生きるときには「苦しみもだえています。」しかし、それは「地上の住みかを脱ぎ捨てたい」つまり、地上の体など死んでなくなればいいと願っているからではありません。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」と願っているからなのです。つまり、キリストと信仰によって結ばれた人は、地上の体に永遠の命の体を着るようにして変えられ、この地上の命が永遠の命に飲み込まれるようにして変えられることを願っているというのであります。これらの言葉から、私たちは永遠の命の体がどのようなものであるかを、おぼろげながらも知ることができます。つまり、永遠の命の体は、地上の体という仮の住まいをおおって建てられる永遠に住むことのできる堅固な建物であるということです。そして、永遠の命の体を造るのは、地上の体を腐敗させる死の力をも飲み込んで無力にしてしまうような、命の源である神様から出る圧倒的な命の力であるということです。
(6月14日の説教より)