テサロニケの信徒への手紙二3:14-15

 かかわりを持たないように
 テサロニケ教会の中にいる怠惰な信徒たちに対して、パウロはキリストにある権威と自由をもって「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)と命じました。これは、もちろん経済的に自立しなさいということでありますが、ただ単にそれだけではなく、人に迷惑をかけない品位ある生活をしてキリストを証ししなさいという意味が込められているということを、先週お話しいたしました。それでは、パウロがこのように命じても従わない人がいる場合にはどうするのでしょうか。教会は自由な共同体ですから、本人が反省するまで黙って待つしかないのでしょうか。私たちは、教会では言っても聞かない場合は仕方がないと考えがちです。しかし、本日の箇所の聖書の教えを丁寧に学んでいきますと、教会は、教えに従わない人を悔い改めに導き、訓練を実効あらしめるための方法をもっていたということがわかります。

 14節でパウロは「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう」と記しています。「この手紙でわたしたちの言うこと」とは、怠惰な者たちに対する「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)という命令のことを指しているのでありましょう。そして、その命令に従わない者がいれば、「その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい」と命じているのです。「かかわりを持つ」と訳されている原典のギリシア語は、「交際する」とも訳される言葉です。実際、教会の中で性的な不品行を行っていた人がいたコリント教会への手紙の中で、パウロは同じ言葉を用いて「みだらな者と交際してはいけない」(一コリント5:9)と命じています。そして、その意味を詳しく解説して、「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪うものがいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と記しています。ここで「兄弟と呼ばれる人」とは教会の信徒のことで、「つきあうな」と訳されているのが、本日の箇所では「かかわりを持たないように」と訳されている言葉です。そして、「一緒に食事もするな」というのは、まず主の食卓を共にするな、すなわち聖餐式を共にしてはならない、という意味であったのでしょう。そうしますと、テサロニケの信徒たちに対して、この手紙の命令に従わない者には「かかわりを持たないようにしなさい」というときにも、聖餐式を共にしてはならないということが含まれていたのでありましょう。宗教改革者のカルヴァンも、テサロニケの信徒への手紙のこの箇所を、聖餐の停止を命じているものと理解しています(『キリスト教綱要』4篇12章5)。

 陪餐停止の戒規とは
 教会が問題のある信徒に対する聖餐を停止することを、陪餐停止の戒規と言います。この戒規という手段が、教会の訓練を担保する機能を果たしているのであります。すなわち、信徒が福音により与えられた自由を濫用して、クリスチャンにあるまじき行いを繰り返しそこから離れようとしないときに、教会はその信徒の陪餐を停止して、公に悔い改めを求めるのであります。カルヴァンによれば戒規の目的は、第一にキリストの体と御名が汚されないためであり、第二に善良な人々が堕落することがないためであり、第三に不品行な人々が自らの罪に気づき悔い改めるためであります。注意すべきことは、陪餐の停止は除名ではないということです。除名はその人を教会員の名簿から除き去るということですが、陪餐の停止を受けても名簿から名前が消し去られるわけではありません。そして、一つの教会から除名されるということは、ただ単にその教会の会員でなくなるということだけではなく、神の国の交わりから排除されるという意味をもっています。ですから、誰かの行いに重大な問題があったとしても、教会ではいきなり除名するというようなことをせずに、まず陪餐の停止によって悔い改めが求められねばならないのです。カルヴァンは「聖餐を停止されたものは、永久的な滅亡と断罪とに投げ入れられたのではなく、ただ、自己の生活と行状とが罪に定められたと聞いて、しかもなお悔改めないならば、永久の断罪を確定される」と述べています(『キリスト教綱要』4篇12章10)。

 陪餐の停止はこのように悔い改めを目指してなされるものですから、パウロは、陪餐の停止を受けた者に対しても決して個人的な敵意をもって接してはならないということを15節で次のように戒めています。「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」カルヴァンはこの箇所の意味することを実に適切に次のように述べています。「聖餐停止を受けたものとの、親しげな往き来や、打ちとけた交わりは、教会の戒規を守ろうとする限り、許されないことであるが、しかしなお、われわれは、できる限りの手段をつくして、(あるいは勧告と教えを与え、あるいは寛容と温和の限りをつくし、あるいはかれらのために神にとりなしの祈りをして)かれらがよりよき実りを結ぶように立ち帰らせ、こうして、教会の交わりと一致とのうちに受け入れるべく、努力しなければならない。」(同上)

 目標を目指して走るための訓練
 現代の教会においていったい陪餐の停止というようなことに意味があるのだろうか、という疑問が出されることがあります。現代のように便利で世俗化した時代には、仮にある人がクリスチャンであって所属している教会から陪餐停止の戒規を受けたとしても、日常生活には何の差支えもないでしょう。教会がごくわずかしかなかった新約聖書の時代や、教会の共同体と地域市民の共同体がほぼ同じ人々によって成り立っていた宗教改革の時代とは、まったく状況が違うではないか、と思われるでしょう。確かに、そのような状況の違いがあることは事実です。しかし、昔も今も変わらないことがあります。それは、神様がクリスチャン一人一人を地上におけるキリストの体である教会に召して、教会を通して天国の救いを授けておられるという事実です。陪餐の停止を受けるということは、あなたはこのまま悔い改めなければ、神様からキリストの体にふさわしくない者と定められ、天国の交わりから排除されますよ、という厳粛な警告なのです。もちろん、天国の救いなどはないという立場に立てば、このような警告には何の意味もないでしょう。しかし、パウロも述べているように、クリスチャンは本来「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」者なのですから(フィリピ3:14)、陪餐の停止は運動選手のたとえを用いれば、「出場停止」という厳しい意味をもっていることになるのです。ですから、信仰の仲間は「出場停止」の処分を受けた者に対して距離を置いて反省を求めつつ、その人が復帰できるように祈っていかねばならないのです。

 現代は人々が生きる目標をもちにくい時代です。社会の中の格差が拡大し、努力しても報われず、無力感にさいなまれ、自暴自棄の行動に走る人も少なくありません。しかし、天国という目標を目指して走る競技には、キリストを信じるすべての人が参加することができます。しかも、それは走り抜いたすべての人に栄冠が与えられるような競技なのです。共にこのレースを走るべく召された者として、愛と厳しさをもつキリストの訓練を受けていきたいと思います。そして、教会は信徒の訓練をキリストから委託されており、走ることを放棄しようとする人や間違った方向に走ろうとする人を絶えず訓練していくものなのです。そのような共通の目標をもつ者として、一人一人の救いと教会の形成に励んでまいりたいと思います。

 最後に、身近なことを一つ申し上げて説教を終わります。それは、私たちが日常生活の中でいろいろな苦しみや悲しみを経験するのは、神様から受ける直接の訓練であるということです。すなわち、私たちの地上の肉体が死んで魂が天国に召されるための訓練として、神様は私たちに苦しみや悲しみを通して小さな死を経験させます。そして、それによって、私たちのこの世を離れて天国へと向かう志を強くしてくださるのです。 (2017年5月28日の説教より)