エフェソの信徒への手紙4:25-26 Ephesians 4:25-26,
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。 (エフェソ4:25)
「偽りを捨て」の「偽り」とはどのようなことなのでしょうか?素朴に考えれば、それは「うそをつくこと」のように思えます。しかし、より聖書に基づいて考えるならば、十戒の第九の戒めで「隣人に関して偽証してはならない」の「偽証」に当たるものと考えるのがよいでしょう。「偽証」は裁判などにおいて偽りの証言をすることですが、真実かどうかわからない伝聞を言い広めることをも含みます。旧約聖書の出エジプト記23章1節には「あなたは根拠のないうわさを流してはならない」とあります。また、レビ記の19章16節には「民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない」とあります。(中略)「偽りを捨て」、「根拠のないうわさ」や「中傷」を流さないということは、現代に生きる私たちにとってとても大切な教えです。
パウロは「偽りを捨て」るだけでなく、「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と教えています。「真実」というのは、素朴に考えれば「本当のこと」という意味に思えます。しかし、これも聖書に基づいてより深く考えるべきでしょう。聖書の研究者たちが指摘しているように、パウロは旧約聖書のゼカリヤ書の8章16節のギリシア語訳に基づいてこの箇所を書いていると考えられます。ゼカリヤ書8章16節には「互いに真実を語り合え」と述べられています。ゼカリヤ書8章は、バビロンによって破壊されて荒廃したエルサレムの都に、主なる神様が平和と祝福をもたらして、神の民の共同体を回復してくださるという預言です。そして、その回復された共同体においては「互いに真実を語り合いなさい」と主なる神様が命じておられるのです。「真実」という言葉は、ヘブライ語のエメトという言葉にさかのぼります。そして、エメトという言葉には「信頼できること」や「誠実」という意味もあります。また、続く17節には「互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな」とあります。ですから、このゼカリヤ書の文脈において「互いに真実を語り合え」というのは、共同体の中で信頼関係をつくるような誠実な言葉を語り合えという意味です。
そして、エフェソの信徒への手紙4章25節でパウロは「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と教えた後で「わたしたちは、互いに体の一部なのです」とその理由を述べています。「互いに体の一部」とは、キリストの体である教会という共同体の一部ということです。このように考えてみますと、パウロも、ゼカリヤ書の預言と同じように、信仰の共同体のメンバーとして信頼関係をつくるような誠実な言葉を語り合うように教えているということがわかります。つまり、単に「本当のこと」を語るというよりは、キリストによって救われた者として誠実に語り合うことが勧められているのです。 (10月5日の説教より)