聖書のことば コリントの信徒への手紙一2:14-16
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
この16節前半は、旧約聖書の引用によって「霊の人」が誰からも裁かれないということの理由を述べています。引用されている箇所は、おそらく旧約聖書のイザヤ書40章13-14節でしょう。パウロは、その箇所をそのままではなく、手紙の文脈に合わせて少し変えて引用しているようです。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」という言葉は、まず第一に、誰が主の霊を受けて主の思いを抱いている「霊の人」を裁くことができるだろうか、いやできはしない、という意味でしょう。第二に、人間の知恵を誇ってパウロを裁いているようなコリント教会の人々が、十字架の主の思いを理解できるだろうか、いやできはしない、ということをも示唆しているのでしょう。そして、そのような示唆を与えることによって、コリント教会の問題を起こしている人々に悔い改めを求めているのでありましょう。
パウロは16節後半を「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」と記して結びます。この場合の「わたしたち」も、これまでと同じように、クリスチャン一般を指しています。そして、2章の文脈全体から考えれば「キリスト」とは「十字架につけられたキリスト」のことです。ですから、クリスチャンは聖霊を受けて、「キリストの思い」すなわち、「十字架につけられたキリストの思い」を抱いていると、パウロは述べているのでしょう。そうすると、クリスチャンは本来十字架につけられたキリストの思いを抱いている者なのだと言って、この箇所も16節前半と同じように、コリント教会の問題を起こしている人々に悔い改めを促していることになります。「自然の人」であれば、「十字架につけられたキリストの思い」を持っていなくても仕方ないが、「霊の人」であるクリスチャンであれば、「十字架につけられたキリストの思い」を抱いているはずだ、ということです。このようにクリスチャン本来のあり方を確認した上で、パウロは続く3章1節以下で具体的な勧告へと移っていくのであります。 (10月29日の説教より)