ヨハネによる福音書20:24-29

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」  (ヨハネ20:27)

 

キリストのトマスに対するこの語りかけを聞いて、皆様はどのように思われるでしょうか?「それは当然だ。キリストには自分の復活を証明する責任がある」と思われるでしょうか?わたくしはそうは思いません。キリストは、ただ単にご自身がかつて十字架につけられたのと同一の人物であるということを、手や脇腹に触らせることによって証明しようとしておられたのではないでしょう。キリストはそれ以上のことをなさろうとしておられたのです。つまり、疑い深く冷酷なトマスの要求にあえて応じることによって、人類の救いのために十字架についたご自身の愛を示そうとしておられたのです。かつて十字架につけて殺そうとする者たちにご自身の身をゆだねられたように、今、十字架につけられたときの傷跡に指を入れて確認しようとする疑い深い者に対してもご自身の身をゆだねて、十字架の愛を伝えようとしておられたのです。復活の主であるキリストは、十字架についてくださった主でもあります。そして、キリストは復活のあとも、「どうだ、私は復活したのだ。いいかげんに信じたらどうだ!」と言って信じない者を責めるのではなく、十字架のへりくだった愛を示し続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださるのであります。

このキリストの語りかけに対するトマスの応答は実に劇的です。28節にありますように、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えたのでした 興味深いことに、聖書にはトマスがキリストの手や脇腹に触ったあとでこのように言ったとは記されていません。また、そのあとのキリストの言葉は「わたしを見たから信じたのか」であって、「わたしの手や脇腹に触ったから信じたのか」ではありません。ですから、聖書に記されていることを素直に読めば、トマスはキリストの手や脇腹に触って自分の指を手の釘跡や脇腹の槍の跡に入れてみて確かめた結果、キリストの復活を信じた、というのではないことがわかります。トマスはキリストの愛に満ちた言葉に心を打たれて「わたしの主、わたしの神よ」と答えたのです。

そうであるならば、トマスは自分の根本的なあり方そのものを変えられたことになります。つまり、証明されたものだけを信じるというあり方から、愛に基づいて信じるというあり方へと生き方を変えられたのです。トマスはキリストの愛に出会うことによって疑う人から信じる人へと変えられたのでした。

(4月5日の説教より)