エフェソの信徒への手紙5:21-24

キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 (エフェソ5:23-24)

 

キリストが教会の頭であるということは、このエフェソの信徒への手紙の4章15節において、教会という共同体が「頭であるキリストに向かって成長していきます」と述べられていることからも明らかです。「頭」“head”という言葉は、日本語でも英語でも「指導者」という意味で使います。そして、キリストが教会の頭であるというときに、キリストが教会を導き治める「指導者」であるという意味が込められているのは間違いないでしょう。しかし、パウロはそれに加えて、23節でキリストがその体である教会の「救い主」であると述べています。そして、キリストはどのようにして教会の「救い主」としてのつとめを果たされたかと言えば、十字架についてご自身を犠牲になさることによってです。この手紙の5章2節には「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」とあります。したがって、キリストが教会の頭であるということに、パウロは導き治める「指導者」という意味だけではなく、御自分を犠牲になさる「救い主」という意味をも加えているのです。したがって、それに続く「夫は妻の頭」というときにも、「頭」には「導き治める」という意味だけではなく、「自分を犠牲にする」というキリスト教的な意味も含むと解釈するべきでしょう。

24節に記されている「教会がキリストに仕える」とは、キリストが教会のために御自分を犠牲になさって十字架上で死んでくださり、そして復活して天に昇られ教会を導き治めてくださっているからこそ、教会はキリストに仕えるのだということです。それでは、24節の後半の「妻もすべての面で夫に仕えるべきです」とはどういうことでしょうか?私たちが使っている日本語の聖書では「仕えるべきです」と翻訳されていますが、実はこの言葉は日本語に翻訳するときに補われた言葉で、原典のギリシア語にはない言葉なのです。そして、「仕える」と翻訳されているヒュポタッソーというギリシア語は、先ほどもお話しましたように、文字どおりには「従う」という意味です。ですから、この24節を文字どおりに翻訳すると「また、教会はキリストに従います。そのように、妻もすべての面で夫に」となります。ですから、言葉を補うとしても、「仕えるべきです」ではなくて「仕えます」でもよいのです。また、「すべての面で」とは「すべての生活の領域で」ということであって、「無制限にすべてのことについて」という意味ではありません。ですから、24節は、教会がその頭であり救い主であるキリストに仕えるというあり方を教えることによって、妻の夫に対するあり方を示しているのです。決して無条件に、また無制限に、妻は夫に従って仕えなさいと教えているのではありません。                 (3月8日の説教より)