エフェソの信徒への手紙5:18-20
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 (エフェソ5:18-19)
新約聖書の時代のローマ帝国では、行き過ぎた宴会である「酒宴」が行われていて、その「酒宴」の後では、性的に乱れた行いが行われていました。「身を持ち崩すもと」と日本語で翻訳されているアソーティアというギリシア語は、英語の聖書(NRSV、NIV 2011、ESV)では行き過ぎた飲酒と性的に乱れた行いを表すディボーチャリー(debauchery)という言葉に翻訳されています。人は、酒に酔いしれると正しい判断力をなくして、罪深い本性のままに行動してしまいます。「何が主に喜ばれるか」を考えないで、自分の欲望のままにしたいことをするようになります。クリスチャンがそうならないように、パウロは「酒に酔いしれてはなりません」と戒めているのです。
18節の後半には「むしろ、霊に満たされ」とあります。この「霊」とは、神の霊でありキリストの霊である聖霊のことです。(中略)。聖霊に満たされるとどのようになるのでしょうか?第一に、19節にありますように「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う」ようになるということです。「詩編」とは旧約聖書にある「詩編」のことでしょう。「詩編」はもともと古代のイスラエルの礼拝で歌われていましたが、新約聖書の時代の教会でも歌われていたのでしょう。また、「詩編」だけではなく、「賛歌と霊的な歌」も歌われていたのでしょう。パウロの手紙の中には、新約聖書の時代の教会で歌われていた「賛歌」の歌詞の引用ではないか、と研究者が推測しているものがあります。たとえば、本日の箇所の少し前にある5章14節の「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」という言葉は、その一部かもしれません。これらの歌は、三位一体の神様をたたえる歌ですから、主であるキリストに向かって心からほめ歌うべきものです。
興味深いのは、パウロがこれらの歌によって信徒たちが「語り合う」ように勧めているということです。信徒たちがこれらの歌を主であるキリストに向かって歌うということが、どうしてお互いに「語り合う」ことでもあるのでしょうか?それは、これらの歌は信徒たちが礼拝に集った場で歌われるからです。教会の礼拝の場で歌われるときに、キリストに向かって歌われた一人一人の賛美の歌声は、礼拝に集った仲間たちに対して一人一人の信じている内容を語る声にもなります。そして、仲間たちが賛美の歌を通して語っている内容を聞くことは、キリストを信じる人にとって大きな慰めや励ましになるのです。 (3月1日の説教より)