エフェソの信徒への手紙5:10-14
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 (エフェソ5:11-12)
「実を結ばない暗闇の業」とは、いったい何でしょうか?それは、少し前の3節に記されている「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと」でしょう。つまり、十戒の「姦淫してはならない」という戒めに反する行いや、十戒の「隣人のものを欲してはならない」という戒めに反するような行いのことでしょう。この世の人々はそのような行いをするけれども、キリストによって救われたあなたがたは、そのような「暗闇の業に加わらない」ようにしなさい、とパウロは戒めているのです。
それでは、「むしろ、それを明るみに出しなさい」とはどういうことでしょうか?それを考えるときに、気をつけておかねばならないのは。12節の「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」という言葉の意味です。この12節の「彼ら」とは、「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと」をしている人々であり、それは5節の「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者」のことです。物質的に繁栄したローマ帝国において、多くの人々は明るみに出されると恥ずかしいようなことを習慣として行なっていました。そうすると、この「彼ら」は、キリストによって救われていないこの世の人々のことを指していることになります。ですから、この箇所は、クリスチャンでありながら「口にするのも恥ずかしいこと」を「ひそかに行っている」人々がいるという意味ではないのです。そうではなくて、キリストによって救われていないこの世の人々が「口にするのも恥ずかしいこと」を習慣として「ひそかに行っている」という意味なのです。(中略)
さて、それでは、パウロはここで、クリスチャンはこの世の人々のしている「暗闇の業」を告発して暴露し「明るみに出しなさい」と勧めているのでしょうか?いくつかの英語の聖書を読むと、日本語で「明るみに出しなさい」と翻訳されているギリシア語の言葉が、「さらす」「暴露する」という意味の“expose”と翻訳されています。そうすると、この世の人々のしている「暗闇の業」を告発して暴露しなさいという意味にも解釈することができます。しかし、日本語で「明るみに出しなさい」と翻訳されているギリシア語のエレンコーという言葉は、第一に「細かいところまで徹底的に調べる」という意味で、必ずしも「暴露する」という意味だけではありません。むしろ、「光」であるクリスチャンがこの世の人々とは対照的な生き方をすることによって、「暗闇の業」に光を当て、「暗闇の業」が何であるかを明らかにするという意味にも解釈することができるのです。つまり、キリストの送ってくださる聖霊によって清められ導かれているクリスチャンの生き方は、それ自体が、この世の人々の生き方が暗闇であるということを明らかにするということです。 (2月15日の説教より)