テサロニケの信徒への手紙一2:5-8

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 (一テサロニケ2:5)

 

この箇所は、よりギリシア語の原典の文字どおりの意味が表れるように翻訳しますと、福音派の教会で用いられている新改訳聖書の新しい版にあるように「へつらいのことばを用いたり、貪(むさぼ)りの口実を設けたりしたことはありません」となります。「むさぼりの口実」の「口実」と翻訳されているプロファシスというギリシア語には、「真の動機を隠すための、偽りの理由やもっともらしい行い」というニュアンスがあります。つまり、「口実を設けてかすめ取る」とは、信徒たちから様々な利益を貪ろうという人間的な動機を覆い隠すために、もっともらしい口実を設けてお金集めをするということを意味しています。パウロが、「口実を設けてかすめ取ったりは」しなかったという弁明をしている背景には、新約聖書の時代に、物質的な利益を目的にして各地を巡回し、様々な宗教や哲学を宣べ伝えて生活をしていた巡回説教師のような人々がいたという事情があったのでしょう。おそらく、それらの人々は巧みに「へつらいの言葉」を用いたり、「むさぼりの口実」を設けたりして、お金を集めたり物質的な利益を得たりしていたのでしょう。それに対して、パウロは、自分たちはそのようなことは一切しなかったと言っているのです。

物質的な利益を求めなかったということだけではありません。パウロは、自分たちが精神的な栄誉も求めなかったと主張しています。すなわち、6節には「また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした」とあります。キリストの福音を宣べ伝える者として、物質的な利益を求めなかったのは当然と言えるかもしれません。しかし、精神的な栄誉も求めなかったということは、パウロが自分自身に対して並外れた厳しさをもっていたことよく表しています。普通、精神的な仕事に携わる人は、物質的な利益は追求しなくても、人々からの賞賛や人間的な名誉については敏感なものです。つまり、物質的な利益を犠牲にしている分、人々から賞賛されて名誉を得ることを強く求めるものです。しかし、パウロは「人間の誉れを求めませんでした」とはっきりと述べています。この「人間の誉れを求めませんでした」ということについて深く考えてみますと、パウロは、人間の誉れは求めないが、キリストが再び来られる終わりの日に、キリストご自身からねぎらいと誉れを受けることは待ち望んでいると、暗に言っているのかもしれません。すなわち、キリストからの誉れを待ち望みつつ、人間の誉れを求めずに キリストの福音を宣べ伝えたと言っているのでしょう。パウロは、テモテへの手紙二の4章8節では、自分の地上の生涯が終わりに近づいていることを意識して「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」と述べています。             (1月11日の説教より)