ヨハネによる福音書1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1:14)
ここで気が付くのは、「ことば」という単語が「言の葉」と書かないで「言」(ことば)と一文字で記されていることです。本日の箇所であえて「言」という一文字で「ことば」と読ませているのは、何か大きな意味があるのだろうと想像することができます。私の知っている限り、この新共同訳聖書の中で「言」という一文字だけで「ことば」と読ませているのは、ヨハネによる福音書の1章とヨハネの手紙一の1章1節だけです。
新約聖書のギリシャ語辞典で「ことば」にあたるロゴスというギリシャ語の単語を調べてみますと、ヨハネ福音書1章の「言」は、特別に一つの項目として扱われています。そして、英語でザ・ロゴスと翻訳され、「独立し、人格化された神の表現」という説明がなされています。このヨハネによる福音書の1章1節から3節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と記されています。つまり、それ自身で一つの人格であるような独立した「言」が、天地創造の前より父なる神様と共にあったのだ、ということがわかります。(中略)
聖書の「肉」という言葉は、文脈によって様々な意味になりますが、新約聖書のギリシア語辞典によりますと、この場合は「肉体をもって生きている存在」という意味です。聖書の中では、人間という代わりに「肉」という場合があります。ペトロの手紙一の1章24節には「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ」と記されています。ここで「人」と翻訳されているのは、本日の聖書の箇所で「肉」と翻訳されているギリシア語のサルクスという言葉です。このように考えてまいりますと、永遠なる存在でいらっしゃった神の「言」であるキリストが、私たち人間と同じ朽ちる存在である「肉」となられという事実に大きな驚きを覚えずにはおれません。人間は、いにしえの時代からいわゆる不老不死の薬を探し求めてきて、いまだにそれを発見した人はありません。ところが、父なる神様と同じ永遠の存在であられる方が、あえて私たち人間と同じ肉体となられたのでした。つまり、私たちと同じように飢え、渇き、痛みを覚え、年老いて死んでいく野の草のような肉体をとられたということです。なんと不思議なことでしょうか! (12月21日の説教より)