テサロニケの信徒への手紙一1:5-7
わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 (一テサロニケ1:5)
「わたしたちの福音」とは、言うまでもなく、「イエス・キリストが私たちのために十字架につけられて死んで、復活してくださった」というよい知らせのことです。それは、もちろん、言葉で宣べ伝えられることなのですが、ただ単に情報として伝えれば伝わるというものではありません。福音は、その福音によって生かされている人を通して伝わるものです。そこで、パウロは「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」と記します。 福音を伝える人のうちに働いている「力」、しかも人間的な力ではなく「聖霊」による力によって、福音は伝えられます。さらに具体的に言えば、宣べ伝える人がしっかりともっている「強い確信」によって伝えられます。「強い確信」を伴った言葉は聞く人の心に迫ります。「イエス・キリストが、私たちのために十字架につけられて死んで、復活してくださった」という福音は、その「私たち」の中に宣べ伝える人自身がしっかりと含まれているときに、力をもって聞く人に迫ってきます。つまり、「イエス・キリストが私のために十字架につけられて死んで、復活してくださった」という「強い確信」が宣べ伝える人自身の中にあるときに、「イエス・キリストが、私たちのために十字架につけられて死んで、復活してくださった」という福音は力あるものとなるのです。そして、そのような「強い確信」は、聖霊の働きによらなければ生じないものなのです。
「強い確信」と言いますと、普通は宣べ伝える人の語り方のことを考えます。つまり、語り方がはっきりとしていて、断定的で声が大きいことが、「強い確信」を表すのだと考えます。確かに、語り方も大切でしょう。しかし、単にそれだけが「強い確信」を表すのではありません。パウロ5節の後半で「わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」と記しています。これは、パウロとその仲間たちが、自分たちの生活全体を通して福音を宣べ伝えたということです。すなわち、宣べ伝える人の生活全体に「イエス・キリストが、私たちのために十字架につけられて死んで、復活してくださった」という「強い確信」が満ち満ちていたということです。言い換えれば、生活全体がキリストの証しになっていたということです。 (12月7日の説教より)