テサロニケの信徒への手紙一1:1-4

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。    (一テサロニケ1:3)

 

愛の労苦は忍耐を要求します。そして、その忍耐を支えるのが希望なのです。本日の聖書の箇所で、パウロはテサロニケの信徒たちが「わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」と述べています。「わたしたちの主イエス・キリストに対する」「希望」とは、どのような希望でしょうか?このテサロニケの信徒への手紙一の4章13節と14節には次のように記されています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

「イエスを信じて眠りについた人たち」とは、キリストを信じる信仰をもってこの世の生涯を終えた人たちのことです。そのような人たちを「イエスと一緒に導き出してくださいます」とは、神様が終わりの日の最後の審判の時に、朽ちることのない栄光の体に復活させてくださるということです。ですから、「私たちの主イエス・キリストに対する」「希望」とは、やがてキリストが再び来られて最後の審判を行い、キリストに逆らう人々を裁き、キリストに従う人々に永遠の命の体を与えてくださるという希望なのです。この終わりの日の希望は、使徒信条でキリストが「生きている者と死んでいる者とを審かれます」ということと「体の復活、永遠のいのちを信じます」ということが告白されているように、キリスト教の教えの中心になる希望です。新約聖書の時代のクリスチャンの敬虔で愛に満ちた生活を支えていたのは、キリストが再び来て救いを完成してくださるという希望でした。彼らは、この希望に基づいて、この世の人生と命を過ぎゆく相対的なものと受け止め、きたるべき永遠の命を目指して品位をもって生活したのでありました。(11月30日の説教より)