エフェソの信徒への手紙5:1-2

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

(エフェソ5:2)

 

父なる神様の愛は、キリストの私たちへの愛によって現されました。そのキリストの愛とは「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」ことでした。つまり、ご自分の十字架の死によって、多くの人の罪を償ってくださったということです。そして、クリスチャンはキリストの十字架によって自分の罪が償われたことを信じる者です。自分の罪が償われたことを信じて罪の赦しを受け、神様に義と認められた者です。16世紀にドイツで作られ、キリスト教の教えを順序正しく教えているハイデルベルク信仰問答は、第60問の答えで、私たちがキリストを信じる信仰によって義と認められるとはどのようなことかを、次のように教えています。「神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。」(吉田隆訳)

そこで、本日の聖書の箇所の「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」というのは、言い換えればハイデルベルク信仰問答で述べられているように、私たちは父なる神様の愛をキリストの十字架によっていただいて、罪赦されて義と認められる恵みを経験したのであるから、ということです。ですから、「あなたがたも愛によって歩みなさい」は、「罪赦されて義と認められる恵みを経験したのであるから、愛によって歩みなさい」ということです。つまり、神様の愛をキリストの十字架によって経験させていただいて救われたのだから、「愛によって歩みなさい」ということです。したがって、キリストの十字架の犠牲は、単に私たちが倣うべき模範ではありません。キリストの十字架の犠牲は、まことの愛を知らない私たちにまことの愛を経験させてくださる神様からの尊い贈りものなのです。

(11月19日の説教より)