エフェソの信徒への手紙4:31-32

神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。              (エフェソ4:32)

 

自分は赦された罪人であるということを自己理解の根底にもつことの大切さは、マタイによる福音書18章23節から35節の「仲間を赦さない家来」のたとえ話を読むとよくわかります。このたとえ話の内容を簡単に解説すると次のようになります。ある国の王が家来たちにお金を貸していました。そして、一人の家来が王の前に連れて来られました。その家来は、王に1万タラントンもの借金をしていました。1万タラントンと言うと、どれくらいでしょうか?新約聖書の時代、人が1日働いてもらうお給料は1デナリオンでした。そして、1タラントンは6千デナリオンというとても大きなお金でした。1万タラントンというとそれの1万倍ですから、ものすごいお金です。仮に1デナリオンを1万円とすると、1万タラントンは6千億円になります。すごい借金です。そんなすごい借金を一人の人が返すことなど不可能です。それでも、王はこの家来に、自分も家族も身を売って奴隷になって、財産も全部売って借金を返すように命令しました。すると、この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と王にお願いしました。全部返す見込みがあったのでしょうか?きっと、なかったでしょう。でも、これを聞いて王は家来が憐れに思えて、ばく大な借金を帳消しにしてあげたのです。なんと寛大な王でしょうか!

借金を帳消しにしてもらった家来はとてもうれしかったことでしょう。ところで、この家来は仲間に100デナリオンのお金を貸していました。100デナリオンはさっきと同じように計算すると100万円になります。そして、その仲間に外でばったり会ったのです。この家来は仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言いました。すると、その仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と頼みました。しかし、この家来は承知せず、その仲間を牢屋に入れてしまいました。このことを聞いた王はとても怒りました。そして、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、この家来を牢屋に入れてしまいました。

このたとえ話にあるように、私たち一人一人は神様からとても大きな罪を赦していただいているのです。すなわち、キリストの十字架の償いによって、自分が過去に犯した罪、自分が今犯しつつある罪、そして自分が将来犯すであろう罪のすべてを天の神様から赦していただいているのです。ところが、私たちは天の神様から膨大な罪を赦していただいていることを忘れて、ほかの人からされた悪いことを根にもって、ほかの人の罪を赦さないようになる傾向があるのです。               (11月2日の説教より)