エフェソの信徒への手紙4:17-21
彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 (エフェソ4:18)
この箇所は、英語の聖書では受け身の意味に翻訳されています。たとえば、English Standard Version という聖書では「彼らは理解を暗くされ」(They are darkened in their understanding)とか、「神の命から遠く離され」(alienated from the life of God)というように受け身の意味に翻訳されています。これは、この箇所のギリシア語の動詞を「受動態」つまり受け身の形であると解釈しているからです。ところが、古代のギリシア語には「受動態」と同じ形でありながら別の意味を表す「中動態」というものがありました。「中動態」は主語が自分自身との関係で何かをすることを表します。つまり、わかりやすく言えば、「自分に〜する」という意味です。そして、この箇所のギリシア語の動詞は「中動態」であると解釈することもできます。「中動態」と解釈してその意味がよくわかるように18節を翻訳しますと、「彼らは自分の知性を暗くし、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、自分を神の命から遠く離しています」となります。聖書の研究者たちも、この箇所をそのような「中動態」の意味に解釈することに賛成しています。
これはどういうことかと申しますと、偶像を神とするような空しい考えをもっている人は、自分で自分自身の知性を暗くし、自分で自分自身を神の命から遠く離してしまっているということです。この場合、「神の命」とは永遠の命のことを指しています。つまり、偶像を神とするような空しい考えをもっている人は、自分で自分自身を永遠の命を受けることができないようにしているということです。18節をこのように解釈すると、19節の意味もさらによくわかるようになります。19節の「放縦な生活をし」という日本語に翻訳されているギリシア語の言葉は、文字どおりに翻訳すれば「自分自身を放縦な生活へと引き渡し」となります。つまり、偶像を神とするような空しい考えをもっている人は、自分で自分自身を乱れた退廃的な生活へと引き渡してしまうということです。偶像とは自分の願望や欲望を形にしたものです。ですから、偶像を神とすると、自分の願望や欲望を神とすることになります。そして、自分の願望や欲望から生じる衝動のままに行動するようになり、自分自身を乱れた退廃的な生活へと引き渡してしまう結果となるのです。
(9月21日の説教より)