マタイによる福音書18:1-9

はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

(マタイ18:3-4)

 

人間は二人以上集まると、どうしても順位をめぐって争ってしまいます。そして今日私たちは、イエスの弟子たちの順位を争う姿から、私たち自身の姿を覗き見ることができます。1節で弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねました。驚くべきことに、直前で主イエスが「わたしは苦しみを受け、殺され、復活する」という十字架の予告をされた、その傍らで、弟子たちは「誰が一番上か」という地位や名誉の奪い合いをしていたのです。主イエスの御心から遠く離れた「自分が一番でありたい」というプライドと争いが、お互いを深くつまずかせる原因となっていました。

弟子たちの争いに対して、主イエスは「子どものようになること」とお答えになりました。3節と4節です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。また、主イエスは「子どもを受け入れる人は、主イエスを受け入れることである」と言われます。

当時の社会において「子ども」とは「もっとも弱い存在」、また「自力で生きていけない人」の象徴でした。誰かの助けなしには、今日を生きることすら困難な、極めて弱い立場におかれた人々でした。自らの力だけでは立ち上がることができない、孤独で無力な存在が主イエスの言う「子ども」です。ならば、「子どものようになる」ということは、自分自身の力や誇り、実績に頼るのではなく、自分の無力を認め、神の恵みにすがる姿勢のことです。

旧約聖書詩編131編で、詩人は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と歌いました。幼子は自力で食べ物を得ることも、自分を守ることもできません。ただ母親の腕の中で全面的に信頼し切っています。このように、自分の無力を知り、神の腕の中に委ね切る人の口からは、「神さま、私はあなたなしには生きることができません」という祈りのことばが自然と出てくるのではないでしょうか。  (10月18日の崔炳一先生の説教より)