ルカによる福音書16:14-18
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」 (ルカ16:16)
15節のところで、キリストはファリサイ派の人々に「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」とおっしゃっています。ファリサイ派人々の特徴は、外面的な行いを整えて人々に「自分の正しさを見せびらかす」という点でした。ところが、それだけでなく、彼らは神様に対しても、自分が正しいという高ぶった思いを抱いていました。ルカによる福音書の8章11節と12節に記されているファリサイ派の人の祈りの言葉を読みますと、そのことがよくわかります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(中略)
16節の「神の国の福音が告げ知らされ」ているとは、キリストがこの地上にこられたことにより、今や律法ではなく福音の時が始まっているということを言おうとしています。ファリサイ派の特徴は、外面の行いの正しさを人々に見せびらかすことでした。それは、ファリサイ派の人々が旧約聖書の律法を日常生活の行いに当てはめることを重んじていたことに原因があります。つまり、ファリサイ派の人々は、たくさんの律法の一つ一つを日常生活に当てはめることに心を奪われるあまり、律法の根本精神である神様への愛と隣人への愛を忘れてしまっていたのでした。いわば「木を見て森を見ず」の状態になっていました。彼らの関心は「自分が神の律法を守っているかどうか」であって 「神様が律法を通して何を命じておられるのか」ではなかったのです。自分の行いを中心にしたことにより、彼らは必然的に律法の解釈を通して自分の行いを正当化するという方向に傾いていきました。
ところが、キリストの福音は、キリストを信じることにより罪が赦されて救われるという教えでした。ですから、キリストの福音を信じる者には、律法の解釈によって自分を正当化する必要がもはやなかったのです。そして、キリストにより救われたことへの感謝として、キリストに従って生きることがあるのみでした。しかも その感謝は強いられた感謝ではなくて、聖霊の働きにより泉のように湧き上がる自由な力であったのです。こうして、モーセによって与えられた律法の時は終わり、キリストによって与えられた福音の時が始まったのでした。
(8月23日の説教より)