ルカによる福音書15:11-24
「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」 (ルカ15:22-24)

「死んでいたのに生き返り」というのはやや大げさにも聞こえます。しかし、この表現は、まったく消息のわからなくなっていた息子がよく帰ってきてくれた、という父親の気持ちをよく表しています。また、「いなくなっていたのに見つかった」という言い方は、この前にある二つのたとえ話と同じように、「失ったものを見つけた」という主題がこの物語にもあることを表しています。すなわち、羊のたとえ話では羊飼いが友達や近所の人々に「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(6節)と言いますし、銀貨のたとえ話では女が友達や近所の女たちを呼び集めて「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」(9節)と言います。これらのたとえ話の言い表しているのは、神様のもとから離れていた魂が神様のもとに帰ってくることでした。同じように、本日の箇所でも、父親のもとを離れて異国で遊び暮らし、その結果食べることにも困るようになった息子とは、神様のもとから離れて生きていた私たち人間の魂のことを表しているのであります。
この物語は、何の解説を加えなくても、読む人の魂に訴える何かをもっています。それは、大なり小なり私たち人間の魂というものが、帰るべき場所を求めてさまよっているからでありましょう。この物語は、私たち人間に父なる神様のもとに帰ることを教えています。そして、放蕩息子を赦して受け入れる父親の姿は、天にいます父なる神様が赦しをもって罪人である私たちを受け入れてくださることを表しています。ところが、この物語を一人ひとりの生活に当てはめて考えるのには、意外と難しい面があります。なぜかと申しますと、この物語は放蕩息子のように特別に悪いことをしていた人が悔い改める場合のことであって、自分には当てはまらないというように受け取られる恐れがあるからです。この話は、果たして特別に悪い行いをしていた人だけに当てはまる話なのでしょうか?そうではありません。私たち人間の魂というものは、例外なくこの放蕩息子のようなものだと理解すべきなのであります。
教会では礼拝の中で「主の祈り」を唱えます。ご存じのように、主の祈りは「天にましますわれらの父よ」という呼びかけで始まっています。宗教改革をしたカルヴァンという人は、この「主の祈り」を祈るときに、本日の聖書の箇所のいわゆる放蕩息子のたとえ話を思い出すようにと勧めています。つまり、私たちは神様の前に祈りをささげるときに、自分もこの放蕩息子のようなものであり、ただ父なる神様の無条件の愛のゆえに、赦されて神の子として受け入れられるのだ、ということを信じて祈りをささげなさいということです。(7月19日の説教より)