ルカによる福音書15:8-10

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」         (ルカ15:10)

 

旧約聖書の創世記1章27節には「神は御自分にかたどって人を創造された」と記されています。また、創世記の9章6節には、人が人を殺してはならない理由が「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と説明されています。人間は、ただ自分の欲望を満たすだけに存在しているのではなく、神様の意思を知って神様と交わり、隣人と正しい関係を持ち、ほかの造られたものを治める優れた存在として造られたということです。この優れた人間の本質をキリスト教の用語では、「神の形」といいます。

ところが、人間の先祖であるアダムとエバがエデンの園にある禁じられた木の実を食べるという神様に逆らう行いをしたために、人間は神様との正しい関係を失って、「神の形」も本来の形を失ってしまいました。16世紀の宗教改革者であるカルヴァンは、人間の魂の中の「神の形」は「はなはだしく破壊され、ほとんど消し去られて」「混乱し・切り刻まれ・汚れに染んだもののほか、何一つ残らなくなってしまった」と断言しています。(『キリスト教綱要』1篇15章4)。そのことは、人間が創造主なる神様との正しい関係を失い、隣人と争い、自然との調和を失った現代の世界の姿によく表れています。また、使徒パウロも人間のあり様をローマの信徒への手紙1章の28節から31節で次のように指摘しています。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」

人間はこのようにひどく壊れた「神の形」をもつています。しかし、それにもかかわらず、そのような「神の形」こそが人間の価値だというのです。カルヴァンは、隣人が悪を行う者であったとしても、こちらが善を行わなければならないのは、隣人の魂の中に「神の形」があるからだと教えています。すなわち、「われわれは、その人の悪を思わず、かれのうちにある『神の形』を読みとらねばならない」(『キリスト教綱要』3篇7章6)というのであります。しかし、現実に人間の魂の中に、「神の形」を見いだすのが困難な場合はどうすればよいのでしょうか?すなわち、その人の魂の中に「神の形」があるとは到底認められず、凶暴な野獣のようなものか、あるいはかたくなな石のようなものしか見出せない場合はどうすればよいのでしょうか?

これは、答えるのが難しいとても困難な問いです。しかし、その場合には、私たちはその人がキリストによって回復されるべき「神の形」をもつていると考えることができます。すなわち、人はキリストを信じるならば、聖霊の働きによってキリストに似た者へと次第に造り変えられていくということです。もちろん、これには長い時間がかかるのが普通です。 (7月12日の説教より)