ルカによる福音書15:1-7
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (ルカ15:7)
ここで「悔い改める一人の罪人」というのが、3節から6節のたとえ話の中の、見失っていた1匹の羊に当てはまることは、明らかです。ですから、罪人というのが、ここでは悪人とか裁きを受けるべき人として考えられているのではなく、良い羊飼いであるキリストの前から失われた存在として考えられているのです。したがって、たとえ話のきっかけとなった徴税人のことを考えますと、 ユダヤの人々から罪人とみなされていた徴税人のような人をこそ、キリストは失われた人として探し求めておられたということです。そして、徴税人のような人が悔い改めて新しく生きることこそ、羊飼いであるキリストの使命であるということがわかります。
また、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」というのは、野原に残しておいた99匹の羊のことを指しています。注意すべきことは、この表現がファリサイ派や律法学者に対する皮肉を含んでいるという点です。ファリサイ派や律法学者は自分が罪人ではなく、正しい人であると考えていました。ですから「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、まさしく彼らのことを指していたのです。しかし、考えてみますと、本当に悔い改める必要ない正しい人がこの世に存在するのでしょうか?その答えはノーであります。悔い改める必要のない正しい人は、今のこの世には存在しません。悔い改める必要のない正しい人はキリストだけです。そして、キリストは、すべての人が罪人であることをよくご存じでいらっしゃったからこそ、人々の罪の償いとして十字架の上で贖罪の死を成し遂げられたのでありました。そして、復活して天に昇られたのです。
使徒パウロもローマの信徒の手紙の3章23節と24節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記しています。神様の目から見るならば、ファリサイ派や律法学者も本質的には罪人でした。しかし、それにもかかわらず、自分たちは悔い改める必要ない正しい人であると思い込んでいました。ですから、キリストに失われたものとして探していただくことができなかったのです。そして、天の父なる神様は、徴税人のような罪人とみなされている人が、キリストを信じることによって悔い改めたことを大きく喜んでおられます。しかし、徴税人と交わりをもつキリストを批判するようなファリサイ派や律法学者のことは、喜んでおられませんでした。 (7月5日の説教より)