ルカによる福音書14:25-35

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。       (ルカ14:33)

ある聖書の研究者は、この教えは教会の指導者にだけ適用されるものだと主張しました。つまり、一般の信徒には適用されず、教会の指導者であるいわゆる聖職者にだけ適用されるものだという考え方です。もしその解釈が正しいとすれば、教会の一般信徒にとっては、本日の聖書の箇所は関係のないことになります。しかし、その解釈は正しくありません。 なぜなら、25節のところに「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」とありますように、この教えは、群衆たちに対して語られているのであって、一握りの指導者たち、たとえば十二弟子にだけ語られているのではないからです。

それでは、本日の箇所の「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という26節の教えや「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という33節の教えがすべてのキリストを信じる人に適用されるとすれば、どういうことになるでしょうか?家族を離縁しなければクリスチャンになれないということでしょうか?個人の財産を完全に放棄しなければクリスチャンになれないということでしょうか?そうだとすれば、クリスチャンになるとは修道院のようなところに入って、世俗の生活を捨てて生きることだということになってしまうでしょう。

しかし、ここで考えなければならないのは、キリストは教えをされるときにあえて誇張した言い方で言いたいことを強調されるということです。たとえば、マタイによる福音書の5章29節と30節では、みだらな思いと行いを捨てることを教えるときに「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」と言っておられます。それは、文字どおりの意味ではなく、「目をえぐり出すくらい」「手を切り取って捨てるくらい」みだらな思いと行いを憎みなさいということです。 それと、同じように、本日の聖書の箇所も「自分の家族を捨てるくらい」「自分の命を捨てるくらい」「自分の全財産を捨てるくらい」の強い心構えで、ただキリストに従いなさいということを教えているのです。

この教えをキリスト教の言葉では自己否定といいます。宗教改革者のカルヴァンは、『キリスト教綱要』という書物の3篇7章1のところで、自己否定について次のように教えています。「われわれはわれわれのものでない。したがって、われわれはできる限り、己れ自身と己れのものを忘れなければならない。その逆に、われわれは神のものである。したがって、われわれは、かれのために生き・かれのために死ぬべきである。」

(6月28日の説教より)