コロサイの信徒への手紙1:1-5

それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。  (コロサイ1:4-5)

 

5節の初めには「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり」と記されています。この「それ」は、4節の「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」と「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」を指しています。(中略)

クリスチャンはなんでも信じる素直な性格の人だからキリストを信じるのでしょうか?そうではありません。キリストを信じるとは、常識によれば信じることのできないようなことをあえて信じることです。ですから、クリスチャンは、常識によれば信じることのできないようなことであることを承知の上で、あえてキリストを信じているのです。

パウロはローマの信徒への手紙の4章において、イエス・キリストの救いを信じるとはどのようなことであるかを、旧約聖書の「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの信仰によって説明しています。そして、4章18節で、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」と述べています。これは、アブラハムとサラの夫婦が子どもを授かることのできない年齢と体になっていて、自分たちも子どもは無理だと思い込んでいたにもかかわらず、あえて神様の約束を信じることによってイサクという子どもを授かったという出来事を指しているのです。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」という箇所をギリシア語原典の文字どおりに翻訳すると「彼は希望において(ギリシア語 パル・エルピダ)、希望に反して(ギリシア語 エプ・エルピディ)、信じた」となります。「希望において」とは、神様が「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ローマ4:17)ことへの希望をもってということです。そして、「希望に反して」とは、この世の常識に基づく希望に反してということです。このパウロの言葉からも、キリストを信じる信仰は、この世の常識に基づく希望ではなく、神様が「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」ことへの希望であることがわかります。そのような希望こそがキリストを信じることの根拠になっているのです。   (6月7日の説教より)