エフェソの信徒への手紙6:18-20
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 (エフェソ6:18)
「聖なる者たち」とは神様に選ばれてクリスチャンとなった人たちのことです。ですから、祈って悪魔と戦うのは、自分のためだけではなくキリストを信じるほかの兄弟姉妹のためでもあるということです。つまり、ほかの兄弟姉妹が神様の御心に従って生きることができるように、祈りをもって支援するということです。そのような祈りを「とりなしの祈り」と言います。日本語の「とりなし」の元々の意味は、二人の人の間に第三者が入って、お互いの悪い感情を取り除いたり、お互いに都合のよい条件を提示したりして、二人の関係をよくすることです。そこから、キリスト教では、ほかの人と神様がよりよい関係になるように願って、ほかの人のために神様に祈ることを「とりなしの祈り」と言います。隣人のために「とりなしの祈り」をすることは、その隣人が神様から恵みを受けて生きるためになくてはならない大切な奉仕です。なぜなら、一人の人は自分の力だけでは神様とのよい関係をもつことができないからです。一人の人が神様と和解して救われその救いを保って生きるためには、ほかの人の「とりなしの祈り」による支援が必要なのです。(中略)
ルカによる福音書の22章31節と32節には次のようなキリストの言葉が記されています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」「シモン」とはペトロのことです、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とは、悪魔がキリストの弟子たちを誘惑して、本当の弟子と偽の弟子をふるい分けることを神様から許可されたということです。ですから、イスカリオテのユダは悪魔にふるい分られてキリストの弟子から脱落して滅びたのでした。ところが、ペトロは脱落して滅びることはありませんでした。キリストが取り調べを受けているときに、三度もキリストの弟子であることを否定したのですから、脱落して滅びてもしかたないようにも思えます。しかし、そうならなかったのは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とあるように、キリストの「とりなしの祈り」があったからです。ペトロの信仰がなくならないように、キリストが父なる神様にとりなしをしてくださり、父なる神様がペトロの信仰を支えて悔い改めを与えてくださったので、ペトロは滅びることなく再び立ち上がることができたのでした。キリストは今も天にあって私たちの信仰がなくならないように「とりなしの祈り」をしてくださっています。そして、地上にある私たちが隣人のために「とりなしの祈り」をするならば、その祈りはキリストの「とりなしの祈り」と一つに結ばれて、父なる神様に届くのです。 (5月17日の説教より)