テサロニケの信徒への手紙一2:17-20
わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 (一テサロニケ2:19-20)
これまでも繰り返しお話してまいりましたように、テサロニケの信徒への手紙一においては、キリストの再臨を信じる信仰が重要なテーマとなっています。すなわち、終わりの日にキリストが再び来られて最後の審判を行われるという信仰です。その時にキリストに従う者たちは永遠の命の体に復活し、キリストに逆らう者たちは永遠の滅びに落とされるという信仰です。パウロは、この手紙の2章16節では「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」と記して、最後の審判によってキリストに逆らう者たちが滅びることを述べています。そして、本日の箇所では、キリストに従う者たちが救われることを喜びをもって述べています。すなわち、最後の審判のときにキリストを信じる者たちが永遠の命の栄光の体に復活するという救いであります。終わりの日に主イエス・キリストの御前で栄光の体に復活させられたときに、キリストを信じる者は、主イエス・キリストに顔と顔を合わせてお会いし、地上における労苦をねぎらわれるのです。また、キリストの御前で栄光の体に復活させられた者同士として出会い、お互いの救いを喜ぶことができるのです。たとえ今この地上で顔と顔を会わせることができない者たちであっても、その日にもはや引き離されることのない者として、栄光の体を与えられて出会い、お互いの救いを喜ぶことができるのです。
「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか」という19節の御言葉には、神の言葉を信じて神の言葉に従っているテサロニケ教会の信徒たちと共に、終わりの日に栄光を受けるというパウロの確信が込められています。そして、「誇るべき冠」という表現は、古代のオリンピックなどの運動競技で、優勝者が月桂樹などの植物の葉でできた冠を人々の前で授けられる晴れがましい儀式に由来しています。すなわち、パウロが神の言葉を正しく語ったということは、それを聴いて信じた人々が終わりの日に共に永遠の命の体に復活することによって、あたかも運動選手が表彰を受けるように、明らかになるということです。パウロの福音を宣べ伝える労苦の多い働きが無駄ではなかったということは、終わりの日にテサロニケ教会の信徒たちが永遠の命の体に復活することによって証明されるということです。ですから、20節にありますように、テサロニケ教会の信徒たちはパウロにとって「誉れであり、喜びなのです。」 (2月1日の説教より)