テサロニケの信徒への手紙一2:1-4

わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。             (一テサロニケ2:4)

 

ここで「認められ」と翻訳されているのは、ドキマゾーというギリシア語の動詞の受け身の形です。この言葉は、試験し吟味してあることにふさわしいと認めるという意味です。実は、これと同じ言葉が後半の「わたしたちの心を吟味される神」というところにも用いられています。「神の福音」を宣べ伝える人は、それにふさわしいかどうかが神様によって絶えず吟味されます。そして、吟味された結果、神様によって福音を宣べ伝えるようにとゆだねられるのです。 それは、ただ一定の能力があるかどうかというような単純なものではありません。一人のクリスチャンとして、キリストを信じる者として、本質的にその人はどうなのかということが吟味されるのです。

神様がどのように吟味されるかということは、コリントの信徒への手紙一の1章27節から29節に次のように記されています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」この御言葉に従えば、神様はその人が神様の前で誇ることがないかどうかを吟味されるということになります。 つまり、神様は、その人が、私たちの救いのために十字架の上で死んで復活してくださったイエス・キリスト以外に誇るものをもっていないかどうかということを吟味されるのです。

確かに、キリストを宣べ伝える人は、その人が誠実な人格をもっているかどうかということや、物事を正しく理解する知性をもっているかどうかということが吟味されます。しかし、特に吟味されるのは、その人の存在の中心にキリストがあるかどうかということです。つまり、自分ではなく、キリストを誇りとしているかどうかが問われるのです。言い換えますと、キリストのために恥ずかしめと苦しみを受けることに耐えられるかどうかということが吟味されるのです。さらに言うならば、キリストのために進んで恥ずかしめと苦しみを受けることができるかどうかということです。パウロとその同労者たちは、この神様の吟味を受けて認められ、尊いキリストの救いの福音を宣べ伝えるようにとゆだねられたのでありました。         (1月4日の説教より)